囂庵コラム アーカイブ


内田九一の甥

明治六年一月十二日、横山松三郎の通天楼日記に、内田九一の甥が、九一の使いで通天楼を訪れる記録がある。

この年、内田九一は推定28・9歳である。九一の兄弟姉妹は、妹が二人いるだけで、仮に九一に甥がいても、とても、九一の使となれる年令だとは思えない。

甥は兄弟姉妹の息子のことだが、されば、この甥というのは誰のことなのだろうか。

かって余が、M氏とともに内田九一を調べていた時に、M氏が仕入れた話だが、内田酉之助という人物がおり、東京で内田九一の弟子をしていたというご子孫のお話があった。

ところが、その酉之助と九一、縁者は縁者としても、どのような関係の縁者なのかは、過去帳戸籍簿などを調べても、答は見いだせなかった。
よって、当時余が制作した仮系譜では、従弟を想定して「か?」付きで扱った。

酉之助は九一より5歳若く、当時は23・4歳である。
余は、日記の筆記者が若い酉之助を、勝手に甥と誤解して書いたものと思う。

いずれにせよ、これで酉之助が九一の元で働いていた、傍証が一つ取れたと、こころ私かに実感する次第である。
よしよし「通天楼日記」である。

実は、この内田酉之助は明治四年に大阪天満天神で開業とあるのだが、ウイーン万博出展写真プロジェクトの為に、内田九一の応援に来ていたのか否かは定かではない。