オトナかコドモか

余は成人式には行かなかった。

理由は簡単、小学校が長野県の大町市と板橋区。中学高校予備校が新宿区で大学が千代田区。それで、住所が練馬区。

早い話余は、練馬の成人式会場に孤独を味わいに行く趣味はなく、そんで、成人式には行かなかった。

当時だって、成人式会場にも今のような酔っ払いはたくさん出ただろうが、それほど新聞種になるようなことはなかった。

むしろ当時の社会は、今では想像もできないくらい野蛮で、電車に乗ってもバスに乗っても映画館でも男たちはタバコを吸い、夕方になれば、たむろして赤提燈の暖簾を振り分け大騒ぎをするのが正しい大人の姿だった。

さてさて、

成人式翌日には、近年すっかり年中行事となった「一部の若者の暴走」との報道がある。

これに、あのような幼稚で可愛いい振るまいは、現代日本人の幼年青年の成長プロセスにおける「長すぎる幼児期」に理由があると騒ぎ立てるが、実は違う。

幼青年期の社会との関わりの、短期集中的な濃密さ、特に青年期の濃密さは十分にその原動力となろうが、先に述べたように、余たち年寄りの時代と比較して、逆に、現代は、「長すぎる幼児期」がだいぶ短くなって来ていたと見るべきだろう。

つまり、余たち年寄りの時代の昔は、大人も爺いもみんなめちゃめちゃ幼稚で、それに比べて青年はみんなウブだったにすぎなかった。

ところが、現今、「長すぎる幼児期」化現象が、中年層・老年層へと逆流し徐々に再び中年層・老年層に浸透をしているのだ。

今や日本も、トランプとその支持者たちを一時的にせよ社会の中核に押し上げた、アメリカと同じ道を一歩十歩百歩と歩んでいる。

時代は今、昔のような大人もジジイもみんなめちゃめちゃ幼稚な行動をする時代に向かって帰りつつあるということだ。

DNAに導かれた社会の回帰現象としてミクロ的に見れば、極自然な生物学的な現象であるだけに、非難はできないし、もともと誰もその先なんて予測することはできない。

所詮政治も宗教でもいじれない、非人事の世界というものが我々の生きている時空間には存在するということだ。

面白くはないが!

それを利用するのが政治と宗教。

さてさて、ご用心ご用心。

ジジイが、成人式をネタに、バカなことを言うと思いながらも聞いてくれてありがとさんでした。

2021/1/12記