今回庵主がレポートするのは、明治天皇肖像写真の「写場についての謎解き」である。
内田九一が庭先でひれ伏しているとされる写真がある。初見は分からないが、それにはたいてい、「吹上御苑瀧見茶屋」のキャプションが附いている。そして「畏まるは写真師内田九一」とある。
ところが、明治十年代に測量された地図によると、瀧見茶屋の前庭は池の端まで数十メートルの距離がある。その様子は長崎大学附属図書館蔵の着色された「吹上園」のロングショットの写真で確認できる。さらに、同館蔵のもう一枚の「吹上園」というキャプションの着色写真も、瀧見茶屋前の庭園をロングショットでとらえている。これらの写真によって瀧見茶屋の前方は、廣い芝庭の平地があり、その先に、鬱蒼とした樹木に囲まれた瀧のある池水庭園の様子が見て取れる。「図説・明治の地図で見る鹿鳴館時代の東京 決定版 (歴史群像シリーズ):絶版 」
最初の九一が畏まる写真を再び見てみよう。
縁先からすぐの所に橋の架かった池か川があり、そこから庭園に続いていることがお判り頂けると思う。
いま我々が確認した「吹上御苑瀧見茶屋」ではないことは明白なのである。
その証人として、余の説の新しい「助っ人」に登場ねがおう。
社団法人霞会館が所蔵する写真を紹介している鹿鳴館秘蔵写真帳という本に、上野寛永寺写真帳の「輪王寺宮御殿築山?」「庭園?」「泉水?」とある三枚の写真がある。ところが、三枚が撮られた場所は、みな吹上園のいずれかの場所である。最初の二枚は長崎大学附属図書館蔵の写真と同じ場所であることから、吹上園瀧見茶屋前の池水庭園と吹上園瀧見茶屋遠景である。
そして、三枚目「泉水?」も、吹上園の地図との対比から吹上園楓茶屋池越の遠景となると庵主は申し上げておく。このことは鹿鳴館秘蔵写真帳のキャプションにも、輪王寺宮御殿説に異を唱えている事もあり、晴れてその疑問を解くことになるだろう。
さて、その「助っ人」の霞会館蔵の写真では瀧見茶屋の様子がよくわかる。茶屋近くはフラットで、池川などはなく、飛び石が芝の上に敷かれている。
では内田九一が畏まっている場所を地図の方から探してみよう。
ピッタリの場所が容易に見つかると思う。
梅茶屋もしくは楓茶屋である。
事実確認は、本職の方にお願いするとして、素人の庵主は気楽に推理する。
梅茶屋は枯山水の庭、楓茶屋は池水の庭と庵主は見た。
DATA 天皇皇后御写真撮影の件明治天皇紀より抜粋
明治天皇紀 明治五年八月五日 天皇皇后の御写真撮影 皇太后の御写真撮影
明治天皇紀 明治六年十月 御写真撮影
明治天皇紀 明治六年十月 皇后御写真撮影
曩(さき)に(峡中新聞の記事による説では 明治五年四月十二日十三日) 天皇・皇后、寫眞師内田九一を召して各々御撮影あり、
是の日(明治五年八月五日)、宮内大輔萬里小路博房を以て之れを皇太后に贈進したまふ、
九月三日、皇太后亦宮城に行啓せられ、九一を召して御撮影あり、
九月十五日、九一、天皇・皇太后の御写真大小合せて七十二枚を上納す、
八日 午前十時御出門、吹上御苑に幸す、午後三時瀧見御茶屋に於て行厨を取らせられ、召に応じて参苑せる熾仁親王・嘉彰親王及び従四位由利公正・同佐々木高行に酒餅を賜ひ、五時三十分騎馬にて還幸あらせらる、是の日、宮城内写真場に於て、新制の軍服を著して撮影あらせらる、十日成れるを以て上る、全身・半身の二種ありて、全身の聖影は大中の二型あり、共に帽を脱して卓上に置き、剣を杖つきて椅子に凭りたまへり、
十四日 皇后、午前十時御出門、吹上御苑に行啓あり、先づ梅御茶屋に御少憩、尋いで写真場に入りたまひ、和装にて撮影あらせらる、紅葉御茶屋にて御晝餐を取らせらるゝ後苑内を御遊歩、午後五時二十分還啓す、