囂庵コラム アーカイブ

勧善懲悪の時代劇は消えたが
それで学んだこと

①越後屋、御主も悪じゃのうー。

行政と行政措置の目こぼしや優遇を金と利得で交換する例がそれだ。

①は贈賄収賄単純明快で金品もその証拠となる。

つまり、行政監査の目はごまかせない。
よって黄門さまには、堂々と懲らしめるための出番がある。

②越後屋、御主たのもしいぞ。よろしく頼む。

行政と行政措置の目こぼしや優遇を利得と利得で交換する例がそれだ。

②は贈収賄の決め手の「金品」が介在しないだけの場合だ。

今日も、麻生副総理が、「代議士が国に取り次ぐのは仕事の一つ」と堂々と仰るように、口利きは議員にとって正常で正当な行為なのだ。つまり鴻池さんの例のごとく、口利きのみで「金品」を得ていない限りは、全く問題はないのだ。

よって黄門さまは、「悪いところに良く目をとどかせ、ものごとを改善した」と誉めることしか出番はないのだ。

御上夫妻にとって、浪花の小学塾の誕生は、「金品に代え難い満足」が代償なのだから、たとえ口利きをしていても、②の例にあたるのだ。

しかし、代償として目に見えぬカタチの贈賄を行う側の越後屋に特段の瑕疵があった場合と、役人サイドに於いて、ポリティカルパワーハラスメントによる違法行為の強要等が促された事実が発覚した場合にのみ黄門さまの出番はある。

ところが、この組織の自己保全愛は、後世の平成の文科省に見て取れるように「わるくはしないから・・」という完璧な相互保証により、ポリティカルパワーハラスメント自体を仕事の一部と受け入れ、結果なされた違法行為は悪事として決して露呈しない。

やはり、黄門さまも必殺仕置き人の出番もないのだ。

逆に、すごいポリティカルパワー社会だ。

つまり、今日の越後屋も御上も、ともに現状はすこぶる安泰なのだ。

2017/3/3