答は明瞭。
彼らは既にフランス兵ではなかった。
旧幕府の士官兵卒のために立ち上がった、ブリュネ、カズヌーブ、マルラン、フォルタン。同席した、細谷安太郎、松平太郎、田島金太郎応親、福島時之助。栄光のフランス陸軍軍服の装飾モールも、すでに輝きを失って、哀れにすら思える。(函館市中央図書館蔵)
実のところ、この写真の正確な撮影時期・撮影場所・撮影者などを特定する確かな情報は無いのだが、函館の田本研造が旧蔵し、現在は、函館市立図書館が所蔵していることから、一般には、慶応四年から明治二年の間に函館で撮られたとされている。
久しぶりに解像度が高く、トリミングが少ないこの写真を見た庵主は、今までは解らなかった、二つ三つの面白いポイントを発見した。
次のポイントは、晴れのステージは古タタミ。
2種類4脚の椅子の置いてあるステージは、古ダタミを敷いたにわか作り、タタミ1枚半強のスペースに8人の男が収まっている。上手のタタミなどは、庭の起伏の傾斜にそって折り曲げてある。写真からそのタタミの繋ぎ目の隙間が写って見えるのである。
三番目のポイントは、廊下のガラス戸。
画面上手の暗い部分。よーく見ると細いサンらしきものが見えるのだ。
はじめ庵主は障子のサンかと考えたが、普通、障子のサンは室内に向いており、室外側は障子紙になるため、サンは見えにくく成る。透明のガラス戸とすれば、この写真のように、サンはより鮮明に見えるはず。
さて、この建物は洋館なのか和洋折衷なのか和風なのか?
さて、床が高く上げてあるが、縁側か?
さて、当時の箱館の一般的な建物の構造も調べる必要もある。
さてさて・・・・
四番目のポイントは、
西郷隆盛が写真を嫌ったワケ。
この時代の写真撮影は、ご承知のように数秒から数十秒の露光時間が必要で、被写体の人物は「うごかないで・・」との写真師の指示に絶対服従を強いられる。しかししかし、庭の植栽や背後につるした白布や建付の悪いガラス戸などは、そんなことにお構いなくゆらゆら。そこで庵主は気がついた。西郷隆盛が写真撮影を極端に嫌った理由が、この≪写真師ごときの一言に対する絶対服従という屈辱感を味わっている時の気分の悪さ≫であると。西郷隆盛の決断力の早さ豪快大胆な性格・・≪一分一秒、服従なぞするものか≫これだ・・。
この写真に限らず幕末明治の集合写真を見ていると、いつも、西郷さんの気持がわかる庵主でございます。
こんな調子で、あなたご自身も、いろいろと探してみて下さい。