おもろ22

小石川小日向第六天町の因縁

因縁があるのです。

徳川慶喜は明治三十年に、静岡から東京巣鴨に移ります。そして、明治三十四年に、小石川は小日向第六天町に移転します。一説によると、山手線の前身の豊島線の工事やら、屋敷脇に巣鴨の駅ができるやらで、なにかと騒々しいことを嫌ってとか。
それはそれとして、移転先の小日向第六天町のお隣さんは、なんと會津松平家でありました。しかしながら、これより前、明治二十六年松平容保は病気療養のかいもなく、この第六天町のお屋敷で亡くなり、明治三十四年の当時は、明治二年生まれの松平容大が屋敷の当主となっておりました。
京都でともに苦労をし、維新の嵐の中ではそれぞれが、それぞれの人生を、選び生き延びた終の棲家が、二人とも、ここ小石川小日向第六天町となりました。
よくよく因縁があるのですね。

さて、この写真、徳川慶喜家の立派なアルバムの中に、大切に残されている写真の一枚です。
写っているお屋敷は、小石川小日向第六天町會津松平家のお屋敷です。

お隣會津松平家の写真はこれ一枚だけですが、これらのアルバムには、静岡時代からめきめきと腕を上げた、「将軍写真師」徳川慶喜さんの撮影によるとされている写真がたくさん収められています。被写体は、家族であったり、お屋敷の佇まいだったり、訪問先の記念写真やスナップ、使用人やその子供たちなど様々です。これを見たい方は、たしか良くできたDVDがありますから、探してみて下さい。
さてさて、慶喜さん、どんなお気持ちで、シャッターを押されられたんでしょうかね。

チラッ!

以下は文京ふるさと歴史館だよりから Danke! 文京ふるさと歴史館だよりへ


新坂にくらした徳川慶喜

徳川慶喜は、天保 8 年(1837)水戸藩 9 代藩主徳川斉昭の子として、小石川の水戸藩上屋敷に生まれます。その後、御三卿のひとつ一橋家を相続、将軍後見職などを経て、慶応 2 年(1866)徳川 15 代将軍となります。大政奉還を経て、明治以降は、権力とは距離を保ち、写真撮影をはじめ、多彩な趣味を専らとした姿が伝えられています。

その徳川慶喜が、明治 34 年(1901)以降、この新坂上となる旧小石川区第六天町(現、春日二丁目)にくらしたことは、現在よく知られています。

徳川慶喜家の家扶・家従(華族の家務などを行うもの)らによる慶喜家の日記(松戸市戸定歴史館所蔵)には、慶喜や家族らの外出、慶喜家への来訪者・贈答その他、慶喜家に関する事柄が 1 件ごと簡潔に記され、慶喜の足跡を知る上で、貴重な資料となっています。

その日記の明治 34 年 12 月 24 日を見ると「九時四十分御出門、御幌馬車ニテ小日向御新邸ニ御移転」との記述があります。それまで住んでいた巣鴨邸からの移転の様子を記すものでしょう。

さらに、移転から遡る同年 8 月 1 日を見ると「御幌馬車ニテ小日向御新邸江被為入」との記述があります。慶喜の行動と思われる同様の記述は、この時期より頻出し、移転する 12 月末にかけて、時にはほぼ日参ともいえる状況を伝えています。9月 19日には「御出門御徒歩ニ而小日向御邸へ」とあり、巣鴨邸より徒歩で第六天町まで訪れている様子が記されています。これらの行動の詳細は明らかではありません。しかし結果として終焉の地となる、この第六天町新邸に対する並々ならぬ思い入れを示すものではないでしょうか。

日記には移転後のことも記されています。「御徒歩ニ而江戸川辺御写真」(明治 35 年 4 月 5 日)、「御徒歩ニ而丸山町有栖川様御別邸へ鷺狩ニ御出」(同年 8 月 10 日)、「御徒歩ニテ御近傍御運動御写真機御携帯」(明治 38 年 3 月 12 日)、「御徒歩ニテ音羽辺へ御写真ニ御出」(明治 39 年 3 月 16 日)など、徒歩外出の記述もたびたび見ることができます。おそらくこの新坂や周辺の坂道も、カメラを携えた慶喜が上り下りしたことでしょう。

大正 2 年(1913)11 月 22 日、77 歳にて慶喜は死去します。翌日より、慶喜死去~葬儀までの記事が新聞各紙に大きく扱われます。『萬朝報』(大正 2 年 12 月 1 日)には、葬儀日の記事として「竹早町電車通りよりと、水道端より(慶喜邸)正門に至る間」が一時通行止めとなる混雑ぶりや、沿道に土下座する老人の姿などを伝えています。

小石川に生まれ、晩年を新坂上となる小石川第六天町に過ごし、小石川を歩き、この地で終焉を迎えた徳川慶喜、文京との縁が深い人物の一人といえるでしょう。


荒木坂にくらした松平容保

その新坂上慶喜邸から直線距離にして 100 m程西へ、そこに位置する荒木坂上に、元会津藩主・元京都守護職の松平容か た も り保が晩年を過ごしたことは、あまり知られてはいません。

松平容保は天保 6 年、高須藩主松平義よ し た つ建の子として生まれ、会津藩主松平容か た た か敬の養子となり、その後 9 代藩主となります。幕末期には京都守護職に就任、動乱の京都治安対策にあたります。その後会津戦争では籠城戦を経験、会津藩も多数の犠牲者を出し、白虎隊の悲劇などが現在に伝えられています。

その容保が、荒木坂上にあたる第六天町 8 番地(現、小日向一丁目)にくらしたのは、明治 20 年代のこととされます。明治以降の容保については、日光東照宮宮司などを務めたこと、幕末~明治維新期における犠牲者への慰霊につとめたことなどが伝えられています。しかし第六天町でのくらしぶりなど、詳細は明らかではありません。

明治 26 年 12 月 6 日発行の『読売新聞』には、「老公」(容保のこと)の正三位昇叙が、長男容か た は る大と松平家家令により広告されます。そして同じ紙面に、12 月 5 日に容保が死去したこと、9 日に第六天町の自邸より出棺することなどが掲載されます。

「容保公薨去取調書」(会津若松市立会津図書館所蔵)には、発病から葬儀までの記述を見ることができます。それによれば、容保の葬儀が神式で行われること、3,200 余名の会葬者を数えたことなどが記されています。

また『会津会雑誌』(第 29 号、昭和 1 年発行)には、病床にあった容保に英照皇太后より牛乳が遣わされ、医師橋本綱常によりコーヒーを加えられ「服用」したというエピソードが山川健次郎(元会津藩士、物理学者、東大総長など歴任)により記されています。

会津松平家廟所(福島県会津若松市)には、「明治二十六年十二月五日、正三位松平源公於小石川第之正寝」と刻まれた容保の墓碑が静かに建っています。

容保死後、第六天町の松平邸には、同郷人の親愛・団結を目的とした、会津会事務局が置かれ、雑誌『会津会々報』が発行(大正 1 年創刊)されました。また会津からの修学旅行生が訪れることもたびたびありました。松平邸は、旧会津藩士や会津出身東京在住者ほか会津関係者の拠点となったようです。


徳川慶喜と松平容保

容保が死去したのは明治 26 年 12 月、慶喜が第六天町に移ったのは明治 34 年 12 月、両者がここで過ごした期間は重なりません。しかし幕末という動乱期、かたや将軍として、一方は京都守護職・会津藩主として未曾有の難局にあたったこの両者が、同じ第六天町でそれぞれの晩年をすごしたことは、意味深いものを感じさせます。(東條幸太郎)

調査協力
会津若松市立会津図書館
松戸市戸定歴史館
若松城天守閣郷土博物館

おもな参考文献
『徳川慶喜公伝』渋沢栄一 龍門社 1918
『最後の将軍 徳川慶喜』松戸市戸定歴史館 1998
『会津松平家譜』飯沼関弥 1938
『紙碑・東京の中の会津』牧野登 日本経済評論社 1980
『松平容保公伝』相田泰三 会津郷土資料研究所 1992 再版