おもろ39

爪革下駄の教え

お取り巻きに囲まれた、薩摩の若殿島津珍彦の写真である。撮影は元治元年十二月から慶応元年一月の間という。西暦では1865年の1月2月頃である。

写場は、坂本龍馬の例の写真と同じであるが、 この写真の注目すべきところは、写場を取り囲む建築物の情報がたいへん多いことである。

先ずは、写場の下手奥の小屋と不思議な柱群である。

さらにさらに、注目すべきは、若殿が写場まで履いてこられた爪革を掛けた下駄である。

その日の午前中は雨が降っていたが、折良く午後から薄日が射し写真撮りができる天候となった。とはいえ足もとは水たまりや泥濘で歩くには注意が必要だった。

上野彦馬の写場の客は、写真写りを良くするために着込んだ一張羅の裾を汚さぬために、待合座敷から写場までの泥濘を、髙下駄を履いて移動する。

長崎はいつも雨だったわけでは無いだろうが、特に珍彦様御履きのこの爪革付きの髙下駄は、この写真が撮られた状況を、かくの如く、極めて雄弁に語ってくれているのである。

おおげさに、歴史真実の証人ともいえるこの高下駄に掛けてある爪革は、さすが若殿用と言うことで、ピカピカに磨き上がっていた。

そのおかげで、キー光線の方向がバッチリ確認できる。太陽の位置は正面よりやや下手側で高度は高いということが、地面に落ちている下駄の影の、角度や位置で判るのである。

毎度余が口にする台詞だが、太陽の作る影は時計の針と全く同じで、条件と運が良ければ、何月何日の何時何分何秒まで特定することが出来る、歴史の証言者となりうるものなのである。

こうして、平成の今日もまた、余の「イメージの旅」は続くのであるが、慶応元年上野撮影局訪問の記念に、余がそこでじっくり見てきた光景を、一枚のスケッチとして、読者氏のために描いておく。

ついでに、余が見てきた様を(推測の世界で)補足すると、写場は南に向いており、昔の精練所と住居の間の広場にあった。左奥の建物は、嘉永の時代の図面には無いが、高い位置に窓があることから物置ではなく何らかの作業場か、はたまた小さかった浴室を大きく改造した建物かもしれぬ。

この建物と写場の間に何本か連なる柱は、住居地区と作業場地区を分ける塀の跡のようだ。柱は一間間隔で並び、各々の柱には臍穴が二箇所にあり、板塀の板を固定する横木がそこに組み込まれていたと推測できる。構造的に重いモノを支える仕組みは見あたらぬので、余は、これは塀の跡だと即座に断言した次第である。

珍彦様のお写真の季節は真冬なれど、余のスケッチは彩りで緑をさして気分を明るくさせたなり。