名所一覧によれば撮影者は内田九一ということだが、裏が取れない。もし、内田九一が撮影したとすれば、彼は誰からどんな経緯でこの撮影を依頼されたのかも知りたいところだ。撮影時期は慶應元年とキャプションに有るが正確には不明である。
撮影場所は本丸の糒櫓(ほしいいいやぐら)東菱櫓(ひがしひしやぐら)が背後におさまる市正曲輪(いちのかみくるわ)の中小屋加番小屋の中庭である。
余は、様々な史料に基づいて松岡利郎氏が作成した大阪城縄張りの復元図上でシミュレーション検証を試みた。
以下がその検証の資料である。
相も変わらずShade3Dでのお仕事でござる。
慶應年間の中小屋加番小屋は、
元年が堀田豊前守正養まさやす(堀田家 宮川藩(近江坂田郡宮川(滋賀県長浜市宮司町)) 1万3千石 黒丸に竪木瓜)
二年が牧野伊勢守忠泰ただひろ(米百俵の越後三根山藩 1万1千石 長岡藩主牧野忠恭が幕府に願い出てこの時期大名となった)
三年が本多肥後守忠鄰ただちか(播磨山崎藩(兵庫県宍粟市) 1万石 第一次長州征伐に出兵し藩財政は破綻した)
但し本多は五月までで以後は空き屋敷。(大阪府立中之島図書館)
写真の糒櫓下の石垣や菱櫓の多聞は陽当たりである。
ということは午前中の撮影で有ることが判明する。
次に、隊列の指揮官と思える武士の影の方向と長さである。
写真では指揮官はほぼ北を向いている。影も概ね北方面を指している。
夏季の影は短く冬期のそれは長くなる。
そんなわけで先ず極端なケースとして冬至から始めたら、なんと10時45分のシミュレーションでほぼピッタリの結果を得た。
さて、今回たまま偶然とはいえ、中小屋加番小屋の大名屋敷の建物影も、奥の建物の陽当たり具合も写真の条件にピッタリと合うのだ。
あとは史料による裏取りのみである。
いつかこのdataをもとに調練の記録を漁ってみようと思う。
また、江戸時代の日本人男性の平均身長は155cm前後と言われており当検証でも参考にした。
復元図をガイドに建物を並べた見たが、若干合致しない点が見られた。理由は復元図自体も様々な史料を読み込んで推測したと有ることから、時代によって様子が変わることは有り得ると理解する。