これによれば、新橋駅前近くの芝日影町には、当時東京の有名繁華街地域別に見ても、もっとも多く、4店の写真所が載っている。
無論この頃ともなれば、有名無名でもっと多くの写真舗が各所で営業していた。
東京写真見立競を数えてみると、なんと163名の名前がある。うち何人かは材料などを扱う業者さんのようだが、それでも明治九年にこんなにたくさんとびっくりしてほしい。ただし余はこんな小さい画像しか持ち合わせていないのでこれ以上ちゃんとしたことははわからないのでお許しを。
そのエネルギーの原点は、一攫千金ニュービジネスフロンティアスピリットと言うところかもしれない。
すでに有名写真所メンバーの浅草奥山江崎礼二も、そのためにお給金を使わず二十両も貯め機材を買い芝日影町で旗揚げし、わずか数年で、徐々に学習実力をつけ大変身を遂げた一人だ。
東洋実業家詳伝 第3編
久保田高吉 編 (博交館,1896)
P124〜P144
江崎禮二君には
そんなエピソードから始まって江崎礼二の人柄を讃える彼の人生行路が綿々とかかれている。
お暇な折には是非お読みあれ。
さて、さて、その江崎の写真に写る敷物が、我が老脳を悩ませる。
その写真は我が尊敬する友人の所有するものだが・・・これについては後日に譲ろう。