おもろ66

田中くんと内田くん

駿河台西紅梅町10番

神田駿河台の高台のニコライ堂が竣工したのは明治24年のことだ。

当時、皇居を上から伺うなどもってのほかと右翼の街宣車がうるさかったともいう。

その工事の最中明治22年1月に、堂上に特設した足場から撮った、「ぐるり東京パノラマ大写真」がある。

もともと撮影者は不明だったが、近年、当時の新聞にその記事が載っていることがわかり、それまで一歩先を行っていたバルトン撮影説は否定された。

記事によれば、明治13年32歳で芝神明社前宮本町に写真舗を開業した田中武が行政から委託を受け撮影したとあるらしい。

何せ、余の現在の環境では裏取りに上京もままならず、らしいとさせていただく。

さてさて、

その東京初の大パノラマ写真に、なんと、明治8年に竣工した高名写真師内田九一の新邸が写っている。

これもまた余の勝手な思いつきで、裏取りはまだないが、様々な状況から合理的に推測したわけで、強ちデタラメとは思わずこの説にもう少しお付き合いいただきたい。

内田九一の新邸の住所は諸氏の研究から、「駿河台西紅梅町10番」ということである。

余は、明治16年発刊の地図を頼りにこの駿河台西紅梅町10番を「ぐるり東京パノラマ大写真」の中に探してみた。

明治16年地図では、「駿河台西紅梅町」には洋館はたった一軒。しかも10番にだけだった。

22年の「ぐるり東京パノラマ大写真」では、佐々木東洋の杏雲堂がそれに加わった。

その他16年地図上の家屋配置と22年写真に写る家屋配置は、ターゲットの内田九一新邸と杏雲堂以外でも、ほぼ一致しており、この時期は十数年の時差ギャップがあっても、それほどトンチンカンな推測にはならないと余は思っている。

明治16年完成の地図も、一つ一つ数年の時間をかけ測量したと読んだこともあり、当時の人々の生活の変化スピードは、現代のそれに比すればだいぶゆっくりだったようだ。

この内田九一の新邸は彼の突然の病死により、竣工そこそこで売りに出たらしい。

榎本武揚もこの物件に興味を示し、安ければなんとかと思った。

その件は、国会図書館にある明治9年9月の榎本から鈴木観月院への手紙に書き残されている。

何時かチャンスがあれば本物にご対面いたしたいものだと長年思ってはきたが実現していない。

榎本武揚が貧乏だった!か、内田ウタの提示した価格が方外であった!か、さてさて、その辺はどうなんだ?

何れにせよ、内田九一が亡くなって1年が経ってもなお、空き家札が門扉にかかっていたというわけだ。

その後の新邸の運命の詳細は知らないが、余は、明治22年1月に至ってもなお、九一が建てた洋館はその姿をその場所で保っていたとこの写真は語ってくれているように思う。

さて、

今の御茶ノ水駅周辺の地域開発の波は、怒涛のごとく押し寄せた。

御茶ノ水橋と御茶ノ水駅に一番近い内田九一の新邸も当然その大きな波の餌食となった。

御茶ノ水橋は明治22年に計画され、超突貫工事で、わずか1年足らずの工期で、明治24年10月に完成した。

橋は日本人の設計としては初の鉄橋ということだ。当時の構造は長さ38間・幅6間、車道幅員7.2m、歩道幅員1.8m×2の上路式ピン結合プラットトラス橋であったとか。

22年1月日撮影された「ぐるり東京パノラマ大写真」には、御茶ノ水橋の工事の様子などはまだ写ってはいない。

やがてこれらのインフラ工事に伴って坂上の橋から駿河台下に通ずる道路も拡張されていく。

そして九一の新邸は土地収用法?のもとに、この「ぐるり東京パノラマ大写真」が撮られた直後に解体されたと思われる。

後輩写真師田中武が奇しくも先輩写真師内田九一の遺邸の最後を写真に収めたということだ。

御茶ノ水駅は、飯田橋中野間の複線電化が御茶ノ水まで伸び、明治37年12月31日に晴れて開業した。

明治40年の地図によれば、『西紅梅町10番の宅地』はかつての三分の二から半分近くになっている。

その後さらにやせ細り、現在に至ったというところだ。

考えてみれば、あの時の榎本武揚の判断が如何であったか知らないが、こうしてみると判断は正しかったのかもしれない。

今その内田九一新邸の跡地を見ることは簡単だ。

JR御茶ノ水駅前広場から駿河台下に向かう明大通りの左半分と隣接する歩道と5・6軒の小さなビルを含む三百坪ほどの長方形のエリアがそれだ。

さてさて、この結論には余の勝手な思い込みや知識不足が多々あるかもしれないが、知る限りの情報による「善意」の合理的推測であると申し上げ、重ねて諸兄諸氏のお許しを乞うておしまいといたします。 Bye Bye!

2020/06/18