以前は、どの写真についても、明確に「何処何処・誰々」を特定する記述も印も無かった。
時期については、帯刀ザンギリ・・いずれも明治二年〜四年ごろの男たちの姿である。場所については、EよりはGの記述による芝神明宮の前にあった写場のものだろうが、Eに神田とあるかぎり、合理的に証明できるものを探し解明をしなければならない。
一部に、明治十三年に神明前に開店したとされる田中武の写真館による撮影だとする意見があり、それによると、明治の初年から田中武は神明前で営業していたと説明をしている。しかし、それには合理的な根拠は示されず、単にGに「芝『明神』前」とキャプションがあるのに、乗っかっただけのような、お粗末で論外なお見立てだった。
べつだんこんな問題は、社会にとってどうこではないが、こうした無根拠な推測は、古写真を扱う先輩達が今まで十二分にやってきた悪しき伝統であることは確かだ。
どなたさまもご自分の思いを100%と信じておられるのだろうが、非合理の極みである。余のようなアマチュアならともかく、プロの大先生方が、これ以上根拠のない間違いの山を積み上げて行かれるのは、なんとも困りものだ。
このページの公開後、新たに二枚の銀之助欄干写真が見つかった。
Hは薩摩の山本権兵衛(左)で、「日本の肖像10巻」に掲載されていた。ただし撮影の場所時間は記録されていない。
海軍70年史談によれば、制服制定が明治四年正月よりとある。写真左奥の台の上に制帽が見えることから、この写真はその当たり、つまり、二十歳の山本権兵衛とご学友ってとこだろうか。
ただしこの年山本権兵衛は正月二十日より八月まで一時薩摩に戻っている。
Iは茂呂さんからご提供戴いた一枚である。茂呂さん曰く「こんなのもありました。近藤真琴とその家族です。『近藤真琴先生伝』(攻玉社、昭和12)。 近藤真琴は明治2年10月、兵部省の召しより鳥羽より上京。 写真に写る妻碩子は明治4年7月死去とのことです。」ということである。
感謝である。