囂庵コラム アーカイブ

M書店のご亭主殿から戴いたお写真で感謝の大妄想

さて、右の写真は田本研造撮影による、函館港のショット。
まさに、

♪窓を開ければ・・
♪港が見える・・

なのである。

すなわち、この写真は、会所町の田本写真館から撮影されている。さらに、数種類、類似アングルの写真が残っています。

そんなことから、M書店のご亭主Mさんから戴いた左の写真を見て、もしかしたらこれも同類項かな?っと、思った次第でございます。

つまり、これは小曽根の写真館のあった場所からの「天満橋」では?という妄想であります。

ただし、こちらは窓ならぬ、

♪やねにのぼって下界をみると・・
♪でっかい橋がそこにある・・

がんばって屋根に登りました。

時代は慶応年間、政局は蛤御門の変後の、長州征討問題、そして倒幕へと騒がしかったあのころ。ちょうど大坂は天満橋たもと石町に、長崎小曽根一族の小曽根順三郎正雄が写真館を構えました。小曽根はもっぱら営業を担当し、写真師は同郷出身の天才写真師内田九一だったようです。

内田九一の撮影といわれている、大坂の大川筋の写真がたしか数枚あったかな? ほかにも、京都町奉行大久保主膳家臣某撮影の四枚パノラマ写真「二条城歩兵調練之図」というものがあり、この家臣某が内田九一だとする説もあります。実のところ、キチンとした証拠等は無いのだが、まあ大雑把には、なんらかのカタチで、無名ながら内田九一は大坂で、中々な、活躍をしていたらしいということです。

つまり、幕末期の九一のことは、明治になり内田九一が、超有名人になってからズーと後の、回顧談等による傍証ばかりで、幕末期から維新直後の、ダイレクトな証拠は、今のところは皆無ということであります。そんなわけで、キチンとした証拠が、今後発見されますようにと、期待する囂庵斎でございます。

それまでは、皆さまの古写真への興味を絶やさぬよう、かくのごとく、おおいにバカさせていただきます。

まあ・・ちゃんとした筋からは「暴論」と怒鳴られますが、怒鳴る方にも根拠無しですから、自由な余輩は大いに暴れ甲斐がございますです。ふたたび「青春」でございます。