写場には3本の石を敷いた通路が走っている。
真ん中にドカンと鎮座する約5尺幅の通路は、後に撤去されることから、この「写場」のためにわざわざ作ったものではない。
ということは、彦馬の父上野俊之丞が仕切っていた幕府の御用工場時代の遺構である可能性が高い。
御用工場とは、火薬の原料となる硝石の精煉場であったから、重い鉱石を運ぶ荷車がスムーズに移動できるための道路舗装のなごりなのだ。キット。
永見徳太郎という長崎の郷土史家がいる。彼は「長崎談叢」第14輯に「白い塀垣の脇に黒幕を垂れ、ロクロ細工の手摺飾りを置 き、その背景前で青天井のもと撮影していた」と言っている。
塀際と言っているからバックは「塀」だなんて鵜呑みにしてはいけません。もしこんなに高い塀があったらそれは刑務所並みです。
これは、昭和の時代の設備の整った写真館のイメージから、読者の想像力をデフォルトさせるために、徳太郎が使用した「なんちゃって」表現にすぎない。
「白壁のどでかい塀みたいなホリゾントバックに、サイドを暗幕で遮光して、トップに白布を張った、オープンスタジオで撮影をしてたんですね。」と言っているのだが、100%イェスとは言えない。50%・・いや数パーセントイエスが良いところだ。
永見徳太郎は、明治23年8月5日生まれ。つまり、余たちと全く条件は一緒。彼自身上野彦馬の当時の写場なぞは見ていない。
こういった裏が無い記事や傍証を、ただ時代を経て生き残っていると言うだけで、信じてしまわれる先生方もたくさんおられる。本に書いてある事は常に真実と普段は思ってもいない方でも引っかかる落とし穴。悪意もないし、善意もなく、自己満足だけ。その気持解りますが、それはそれ、これはこれ!
ゆえに余は、全ていちいち世間一般に通用する、合理的な証拠を見つけて世間に問ひて、そこから真の答を見つけようといつもガンバっておるのだが、けっこう諸先輩と同じに、落とし穴にはまっている情けなさもある。
だから、賢明なる読者諸君に真実の解明を委ねる切っ掛けをと・・これが無能者の生きる道と開き直る。