2016年4月22日、高速道路工事現場の橋が落ちた。
未曾有のことである。
しかもこの工事は絶対に事故は起きない想定で行われた。よって、下を通る国道はなんら規制もされてはいなかった。
工事関係者は信じられないというが、信じられないのは、われわれ国民だ。
いつのころからか、えらいひと(これは単に上役や上級組織に属する人をいう)が安全だとひとこと言えば、世の中はそれに盲従することが求められる傾向が極めて強くなってきた。
下っ端が、危険ではありませんかなどと意見を述べれば、逆らうのかと恫喝され、即首になる。
しかし、ことがおこれば、上は下の首を官憲に差しだし、自分は数ヶ月の減給10%で生き延びる。
こんなのでいいんだろうか。
グーグルマップで、薩摩川内の九州電力川内原子力発電所あたりを見ると不安になる。
不安の種は何だと考えてみた。
むかしむかし、人里離れたところに騙しだまし建設した浅はかな結果が、致命的な欠陥を産んでしまったのだ。
こんなことなら都会のど真ん中に作っておけば、衆人環視の目が届き緊急時のアクセスも良く、かえって超安心の環境が得られたと皮肉を言いたくもなる。
川内川を渡るメインアプローチは、橋脚が高くて長い華奢な橋が一本。 そして、海岸線と山間を縫って内陸に向かう細い道がたった二本。
都合たった 2.5本 しかないアクセス道路。
先の事故の反省をふまえ、発電所は新しい「想定」の下に構造を含めて強度を増したとしても、あの橋あの崖道あの海岸道の強度までも考慮してはいまい。
福一と違い、万が一のトラブルが起きたとき、橋も道も使えない事態がおきても不思議がない立地条件だ。
今日の高速道路の橋の落下は、当然「起こり得ない事故」であったはずだが起きている。
世の中この先、想像以上ものことは、いくらでも起こるだろう。
人間はそもそも、弱いから、伝統やその時代の価値判断に従うようにできた保守的で楽天的な動物だ。 だから、想像の範囲は、常に極めて常識的な範囲に留まるのだ。
ゆえに、心配や可能性の指摘に対しても、奇想天外な想像の範囲を超えた非現実の考えだと、OBゾーンにそれらを置いてしまう。つまり「問題外だ」と。
でも、皮肉なことに現実では、想像の範囲を超えて自然は動く。地球も生きているのだ。
想像と奇想天外の境を現実的に定めたプランが、想定であろう。
それが、福一原発事故でことごとく否定をされた。
よく聴いた「想定外」は、たんに、責任逃れの免罪の雄叫びだったのだ。想定するのが恐くて想定しなかったとは言えぬのだ。
日本は、原子力の利用により起こる全ての不幸を体験した、世界唯一の民族だ。
ゆえに、原子力に対する危機回避本能はどの民族より強いのは自然のことだ。
ところが実際は、この恐怖心に目を閉じて、そこから逃げ出した輩が、TOP面して「安全安全」と日々、自己暗示を国民に持たせようとしている。
トータルバランスを合理的に考えられるリーダーがいないこの国は、まもなくきっと消えて無くなる。残念なことだ。