余みたいにおつとめ社会からリタイヤした人間は、心に思うまま、AB首相や閣僚や官僚や役人ぐるみの「国民に対する背信行為」や「嘘のヒエラルキー」をいー冗談だと驚いたり、とんでもねーと非難することが自由にできる。
一方、おつとめ社会の現役諸氏においては、自己の環境や人間社会関係などなどの諸事情から、人前では、「AB首相万歳!」は言えても、非難や批判や改善要求などは軽々には言えない。
余は、仕方がない。それも、もっともなことだと同情する。
つまり、今の状況が、我々が歴史で学んだ、昭和十年代初頭の国民のこころの状況と全く同じ所に置かれていると思うからだ。
あの蕎麦屋メニューモリ・カケ問題についてかくも多くの良識ある人々が、完全に押し黙り、支持も不支持も明かさないで、空しく時間を過ごしている深い事情がよーく理解できるのだ。
しかし、昭和十年代初頭の国民心理と、現在の国民の心理には根本的に大きな違いがある。
前者の国民心理が社会の未成熟による「全体主義的な安堵利益欲求」であるに対し、後者のそれは社会の成熟の果ての「利己主義的な安堵利益欲求」によるからだ。
つまり、現在は、黙っていることが「自分にお得」だと判断しているだけで、社会に対しては、直接には全く関係も関連も無い。
因みに戦前は逆に御上に楯突かないことが「徳」と脳ミソにプリントされ、まさに黙っていることの判断が社会的価値観におそろしく深く結びついていた。
戦前戦中に東条英機を称賛した多くの大人達が、戦後、口々に東条英機を罵った。
結局、日本人にとってこのやり方が、楽で正しい選択のDNAとして、今でもしっかりのこっているのだ。
現在過去いずれにしても、表では自分の意見を示さないことが、オノレの身の安全にたいして、裏で保険を掛けていることになるからだ。
つまり流行語ノミネートの後出しジャンケンだ。
いやまてよ、後出しジャンケンは何時の時代でもどんな社会でも本来弱い人間の生物としての生き方の基本なのだから、それで良いのだ。
現役諸氏にあっては、非難の声と行動を起こしても、御上は、飯の種の蔓をたどってあらゆる策を労してでも潰しにくる。
だから現役諸氏達が、御上への非難を後出しにするのは、本当は正しい選択なのだろうと、余は一生懸命理解することにした。
しかし、後出しジャンケンを出せるチャンスが来なかったら、もう終わっている話だが。
2017/07/27