現在の「日比谷門」は日比谷公園の門で、日生劇場の向かい側になるが、江戸時代の「日比谷御門」は、日比谷見附の門で現在の日比谷交叉点のちょい桜田門寄りの内堀通り上にあった。
現在の日比谷交叉点から日比谷公園に入る門は「遊楽門」と言うらしく、その脇の道路上あたり一帯に「日比谷御門」が有ったと思えば良い。
「日比谷御門」の内側は有楽町側で桜田門側が「日比谷見附」で外。すなわち丸の内は将に丸の「内」にあるのだ。
余がちいちゃい時、東京モーターショウは日比谷公園でやっていた。
もちろんその頃は鳩の糞だらけの朝日新聞社ビルや日劇の丸い煉瓦タイル外装のビルが数寄屋橋に貫禄を付けていた。
どぶ川状態の濠には小さな艀船が群れていて、橋際のパチンコ屋が新台入れかえ祝いの花輪をギンギラに飾り立てていた。
小四の子供にとって大都会の佇まいや喧噪は全て無意味なものばかりだった。
脱線!
本題は 明治四年、太政官少史蜷川式胤が写真師・横山松三郎と絵師・高橋由一の協力を得て、作製した旧江戸城の記録写真集「旧江戸城写真帖」に日比谷門の写真がある。
この写真をどこから撮ったのか地図上で見たり、ネットで情報を検索したりの中、おや?があった。
現在日比谷公園遊楽口に「日比谷見附跡」の標柱があり、そのガイド板に書かれている現存する石垣についての中途半端な説明が気になった。以下に示すそれである。
この石垣は、江戸城外郭城門の一つ、日比谷御門の一部です。
城の外側から順に、高麗門(こまもん)・枡形(ますがた)・渡櫓(わたりやぐら)・番所が石垣でかこまれていましたが、石垣の一部だけが、ここに残っています。
余が言いたいのは、現存の石垣は一部を移築して保存されているということが欠けているといいたいのです。
それと「公園造成時の面影を偲び、心字池としました。」がまずいですな。
つまらんことですが。AB政権と学芸員にはちょっと厳しいんです。ごめんなさい。