明治も10年を過ぎると測量を基とする地図が出始めるが、それでも現代の地図のような正確なものではない。
同時に街は歴史とともに大きくその姿を変える。昔の辻角や区画は消え、新しい時代の区画にかわるのはあたりまえとなる。
そんなわけで、古地図を頼りに現代の場所を探す楽しみは、パズルとして大いに成立するわけだ。
上から下に向かって古い時代になるのだが、昭和9年の「地籍図」は、ほぼ現代地図と道路や区画の状態が合致している。
この地籍図と明治40年の地図の間には関東大震災があった。そのためか、場所の符合性については、トントントンとは行かなくなってしまった。明治40年の地図は、東京郵便局と東京逓信管理局によって編纂された「東京市十五区番地堺入地図」に基づいて書き起こされた「郵便地図」とか「逓信地図」と呼ばれるものだ。
ご覧のように、上の地図の境界区画線とこの地図の区画線ががうまく重ならないのだ。
それで、先ほどのぼやきとなるわけだ。
近代的な地図の始まりが明治9年〜17年の間に陸軍省参謀局測量課で作られた36図からなる「五千分一東京実測原図」である。これはさすがにしっかりとした地図で、建物の配置ばかりでなくその形状やそのほか地形の情報もとても判りやすく表記している。
一番下の地図は「沽券地図」といって、土地の利権者の名前と面積と売買価格が記されている。沽券とは、沽券にかかわる沽券であるが、元来は土地の売買証文のことをいうようだ。ちなみに、七番の地主は友野治郎兵エさんで百二坪五合価格は二百円とある。高いのか安いのかそれは判らん・・ この、沽券地図は、もちろん近代・現代レベルの測量によるものではない。東京都の古文書館でコピーができる。