いい男正興
なお写真の出典は下記の通りです。
新見正典 『19世紀の日本と亜米利加』(横須賀市自然・人文博物館、2010)←薄冊のパンフレット
設楽備中守 『大日本名家肖像集』(経済雑誌社、明治40)
川村大和守 『旧幕府』の口絵
今月から(後略)・・・
イカンのは、ネットモノのコピペです。
人は活字に弱いので、もっともらしく見えるモノは、情けないほど無抵抗に受け入れちゃいます。現代人のいけない振る舞いです。
さて、新見正典は、父親新見正路の弟の三浦義韶(よしつぐ)の次男で、親父正路の養子である義兄新見正興の養子となって、慶応二年に晴れて家督を相続します。
平たく言えば、年上の従兄に預けておいた権利を、返してもらったわけです。
ごくろうさんの新見正興は、日米修好通商条約批准書交換使節団の正使を務めたほどの、当時一流の外交官です。とても二枚目で、もてもてのお殿様だったようです。
さて、一方、家督を相続した従弟の正典さんは、どうだったんでしょう。わかりません。
正興のいい男振りは母親ゆづりかも知れないから、同じ新見系などと言っても全然空振りの場合もあるのです。
短絡して決論を得るのは、単純な頭脳の持ち主である証明になるので、気を付けましょう。
かく言う余はどうか・・至って単純な頭脳の持ち主として、いつも恥をかきっぱなしです。
ということで、新見正典 設楽備中守 川村大和守のお三人。
そうなんです。全く同じ布の敷かれた台に腰を下ろしています。嬉しいですねーえ。
余はこうして「天才サーチャー茂呂さま」のお陰でいつも楽しませて戴いている。
さて、ここはどこか?
わかりません!
では男が廃ると・・余もがんばった。
余の茂呂さんへのメール。
ということは、もし、この敷物が、霞谷の写真のもの、そのものだとしたら・・・(それは江戸での撮影かも知れません。)
新見・設楽・川村の写真は、川上冬崖ら「開成所」の先生方によって、慶応二年十月以前に京都あるいは大阪で撮られたもので(あるかも知れません)、件の敷物は、川上先生が慶応二年十月江戸に持ち帰り、そのご、開成所に加わった、霞谷さんに「あげた」ものかもしれません。
亀谷先生がメイン写真師で、堀内と堀がまだ先生の指導を受けているころの、堀与兵衞の母さん写真の、堀内Aパターン敷物の下にしかれた敷物で、その後、堀与兵衞の市松敷物の下にひかれたシマの敷物かもしれません。
まったく、無責任なおはなしでごめんなさい。
このたびも、おもしろい写真をありがとうございました。
いいじま拝
もし、この敷物が堀與兵衞の市松の下にひかれている敷物と同じであれば、これまた喜ばしい話なのだ。しかし、余には模様のパターンが同一とは証明出来ず、今のところは期待を込めて、「堀與兵衞ちょっとリード」としておこうと思うのだ。
慶応二年、堀與兵衛祗園切通に支店開設。(京都写真師年表)
慶応三年、この年、堤徳三郎、堀内重信相次いで開業。(京都写真師年表)