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おもろ25
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新見正典の写真

いい男正興

2011年4月茂呂さんからのメール

2011年4月17日に茂呂さんから戴いたメールです。
こんばんわ!
虎の皮が敷かれた縁台に座った原市之進・梅澤孫太郎・土岐朝海・土岐朝海と他一人の4種の写真がありますが、同じく慶応期に幕府の目付だった新見正典・設楽備中守・川村大和守にもおそらく京都か大坂で写された写真があります。 p> こちらの三人に共通する敷物に注目しております。川村大和守の写真には背景画(屏風絵か)も写っています。慶喜周辺の写真師か京阪の営業写真師が撮ったものだと思いますが、この写場について何かお気付きのことがありましたら、なにとぞご教示下さいますようお願い申し上げます。

なお写真の出典は下記の通りです。
新見正典  『19世紀の日本と亜米利加』(横須賀市自然・人文博物館、2010)←薄冊のパンフレット
設楽備中守 『大日本名家肖像集』(経済雑誌社、明治40)
川村大和守 『旧幕府』の口絵

今月から(後略)・・・

写真左上若い時の桂歌丸さんのような風貌のお侍は、新見正典といいます。
いい加減な資料では、ときどき正興と混乱して書かれたりしています。余はそんなわけで、いつも他の史料と対照して、できるだけ間違いを伝えない努力をします。

イカンのは、ネットモノのコピペです。

人は活字に弱いので、もっともらしく見えるモノは、情けないほど無抵抗に受け入れちゃいます。現代人のいけない振る舞いです。

さて、新見正典は、父親新見正路の弟の三浦義韶(よしつぐ)の次男で、親父正路の養子である義兄新見正興の養子となって、慶応二年に晴れて家督を相続します。

平たく言えば、年上の従兄に預けておいた権利を、返してもらったわけです。
ごくろうさんの新見正興は、日米修好通商条約批准書交換使節団の正使を務めたほどの、当時一流の外交官です。とても二枚目で、もてもてのお殿様だったようです。
さて、一方、家督を相続した従弟の正典さんは、どうだったんでしょう。わかりません。

正興のいい男振りは母親ゆづりかも知れないから、同じ新見系などと言っても全然空振りの場合もあるのです。

短絡して決論を得るのは、単純な頭脳の持ち主である証明になるので、気を付けましょう。

かく言う余はどうか・・至って単純な頭脳の持ち主として、いつも恥をかきっぱなしです。

またまた、脱線だ。さてさて、本筋・・・

ということで、新見正典 設楽備中守 川村大和守のお三人。
そうなんです。全く同じ布の敷かれた台に腰を下ろしています。嬉しいですねーえ。

余はこうして「天才サーチャー茂呂さま」のお陰でいつも楽しませて戴いている。

さて、ここはどこか?
わかりません!
では男が廃ると・・余もがんばった。

余の茂呂さんへのメール。

茂呂さま
おつかれさまです。
けっこうなお写真ありがとうございます。
ぼこぼこ刺激されました。

(A説 嶋霞谷)

敷物でとてもよく似たものを使用しているのは、タイミング的には、明治期だと思いますが、慶応三年八月に、開成所絵図調出役となった、寺沢三男三郎こと嶋霞谷です。

ということは、もし、この敷物が、霞谷の写真のもの、そのものだとしたら・・・(それは江戸での撮影かも知れません。)

新見・設楽・川村の写真は、川上冬崖ら「開成所」の先生方によって、慶応二年十月以前に京都あるいは大阪で撮られたもので(あるかも知れません)、件の敷物は、川上先生が慶応二年十月江戸に持ち帰り、そのご、開成所に加わった、霞谷さんに「あげた」ものかもしれません。

(B説 亀谷先生と堀内・堀グループ)

もうひとつは、慶応二年八月過ぎに、阿部寿八郎こと亀谷先生と堀内・堀グループによって、京都で撮影されたモノかもしれません。

亀谷先生がメイン写真師で、堀内と堀がまだ先生の指導を受けているころの、堀与兵衞の母さん写真の、堀内Aパターン敷物の下にしかれた敷物で、その後、堀与兵衞の市松敷物の下にひかれたシマの敷物かもしれません。

まったく、無責任なおはなしでごめんなさい。

このたびも、おもしろい写真をありがとうございました。
いいじま拝

2011年4月18日のことでした。
もうすっかり忘れていた。それにつけても茂呂さんはいつもいい物を見つけてきて見せて下さる・・・感謝だ!

ところが

ところが、柳営補任でこの時期の備中守で設楽を捜すと、設楽岩次郎が該当した。岩次郎はなんと慶応三年三月二十四日付けで、寄合すなわち無役から目付に再任され、大坂勤務を命じられている。 この縞敷物写真の三人は、慶応三年三月の時点では目付として京阪に居ることがわかったのである。
それで、2011年時点での余の疑問の解は、どうやら

(B説濃厚)

のようだと、若干ながら、まともになってきた。
やはり、天才茂呂さんの当初のお見立てはズバリ正しいのだ。

もし、この敷物が堀與兵衞の市松の下にひかれている敷物と同じであれば、これまた喜ばしい話なのだ。しかし、余には模様のパターンが同一とは証明出来ず、今のところは期待を込めて、「堀與兵衞ちょっとリード」としておこうと思うのだ。

慶応二年、堀與兵衛祗園切通に支店開設。(京都写真師年表)
慶応三年、この年、堤徳三郎、堀内重信相次いで開業。(京都写真師年表)


付録 新見正興と正典、川村順一郎(大和守)、設楽岩次郎(備中守)の柳営補任