おもろ30

写真師織田信眞

横山松三郎の通天楼を居抜いた男の噂

「通天楼日記」の岡本章子氏の論考

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織田 信真(おだ のぶざね、天保13年(1842年) - 没年不詳)は江戸時代末期の武士(旗本)。高家旗本の織田長裕の子。慶応3年の武鑑での石高2000石。

天保13年(1842年)武蔵国江戸で生まれる。幼名は豊満寿丸(とよますまる)、のち織之助と称する。
安政2年(1855年)3月26日に父長裕の隠居により、家督を相続する。家督相続後も高家職に就任することなく、俗に言う表高家衆として過ごす。なお、表高家内の席次は第一位。
文久3年(1863年)1月7日将軍徳川家茂に御目見をする。
慶応4年(1868年)7月9日、明治新政府より本領安堵される。
明治元年(1868年)10月14日、太政官より「旧旗下織田織之助本領安堵ノ儀」を、大津県へ下達される。
明治5年(1872年)10月には江戸の薬種問屋杉浦六三郎(後の杉浦六右衛門)の肖像写真を撮影している。
秩禄処分後は写真師として生計を立てていたようである。

とある。

真偽の程は定かではないが、フィギュアースケーターの織田信成さんのご先祖様が織田信長で、幕末期のご先祖は、維新後写真師となった織田信眞さんであるとかないとか。

明治九年、新橋門前町の写真師織田信眞さんが、もう写真師なんか飽きちゃった横山松三郎さんの、上野池之端仲町七番地の写真館「通天楼」を弟子ごと居抜きで引き受けたと、新聞が伝えているらしい。

このことは、名著「通天楼日記」の岡本章子氏の論考に詳しくある。