おもろ41

どこやねん? 

場所判明!

この写真が掲載されているこの図録には、新大橋と小名木川かも?とある。

大日本全国名所一覧という写真集に「萬年橋」とお題があるらしい。

しかしである。

新大橋は、元禄六年創架当時長さ京間で100間、幅が3間7尺の大橋であった。

その後度々架け替えがあり、嘉永二年の立て替えが最後である。

橋の長さから逆算してわかるが、当時の墨田川の幅は200メートル近くあった。

写真を見ても橋のある川はそんなに広くはない。 ネットでひろった「新大橋」の写真と比較して見れば一目瞭然である。

当時の橋の橋脚の間隔はせいぜい5間、橋脚の数を数えても、4・50間の川幅しかないのである。

写真は嘘はつかない。

つぎに、太陽の位置を見てみると、川向こうの蔵屋敷の屋根に、屋敷内の大木の影が落ちている。つまり蔵屋敷のある方向は北ではないのである。東か南か西である。

だからお題の萬年橋と小名木川でもないのである。

そこで再びどこやねん!となる。

この写真集は「全国」と謳っていることから、全国の大きな都市の幅50間程の川を探せばよいのである。

それでこのページのタイトルの意図がおわかり頂けたと思う。

余は大阪の堂島の蔵屋敷のあたりがあやしいと睨んで、大阪の橋の写真を探し、ついに甦る幕末97の「DoJima川」写真に巡り会った。

どうじゃ!蔵前の木といい屋敷内の大木といい問題なく同じ場所である。

ただし余はこの橋が何橋かまでは未だにいたってはいないが、大江橋の線で確証を探っている。

ところがところが、大江橋は大間違い!! 
無論お江戸では無いことが判明した。

場所判明!

増修改正摂州大坂地圖

刊記 : 天明九年己酉二月御免(1789年2・3月) 文化三年丙寅三月彫成(1806年4・5月)

朱でマークした鍋島藩蔵屋敷写真
天保絵地図と特徴を比べると合致していることが良くわかる。

青でマークした広島藩と久留米藩蔵屋敷浮世絵

天保十己亥年(西暦1839年ころ) 大川便覧

明治二十年(西暦1887年) 内務省発行大阪実測図

場所判明!