おもろ49

土佐堀・江戸堀・川口外国人居留地

明治七年に内田九一が、長崎の上野彦馬に「ありがとう」の言葉を添えてプレゼントをしたとされる「VIEWS Of JAPAN」というアルバムがある。

長崎歴史文化博物館のHPで、その「VIEWS Of JAPAN」を見ていて、あるモヤモヤ一件がスッキリと解決した。

長崎歴史文化博物館のHP→収蔵資料→資料検索→全収蔵資料検索→キーワード( VIEWS of JAPAN )

発端は2014年のJCIIの展示に出された一枚の写真の撮影場所問題である。

この写真を「写真A」と呼ぶとしよう。

展示のテーマ地域は「本所区・深川区」であった。写真Aのキャプションは「萬年橋か」と場所の特定は避けてはいるが、「墨田川」「小名木川」「萬年橋」『新大橋」などのキーワードがたくさん盛り込まれた解説がついていた。つまりJCIIは自信をもって「あの辺」の写真といっている、余に言わせれば「正解放棄」のずるいやり方だ。

古写真に詳しい人々も、やれ「紀州の蔵屋敷だ!」、やれ「墨田川の中州からの萬年橋だ!」などとお気楽に騒いでいた。

余が写真Aを見た第一印象は川幅の狭さだった。
川幅が200mを越す「墨田川」だとはとてもあり得ない。 無論、「小名木川」では川幅が広すぎる。

奥に見える橋の橋脚の数や、大型木造橋の平均橋脚間隔などを基に川幅を計算すると、80〜100m程の規模の川であることが想定できた。要するにこの川は、墨田川では絶対にあり得ないのだ。

さて、市街地に川幅80〜100mクラスの河川を持つ都市はそうはない。 余はただちに、写真Aの川は大阪だと目論んだ。

大阪の川の古写真をいろいろと見あさった。難無く「これだ!」と思える写真Bを発見した。

それは、古写真を集めた写真集のはしりである「甦る幕末」に掲載されている、「大阪 堂島川」とキャプションのある写真(#97)である。

日本の理化学教育の創始に大いに貢献してくれたオランダ人ハラタマの子孫家に残る同一の写真には「DoJima川」と記入されているという。

写真Aと同じ橋と同じ蔵屋敷がアングルにおさまった写真Bのキャプションが、「大阪・堂島川」であったことで、写真Aは間違いなく墨田川ではなく、大阪の「どこか」だという余の主張に自信が沸いた。

余はこのキャプションを頼りに堂島川での可能性をさらに探った。

余の相棒はいつものShade15と大阪の古地図たちである。 大阪の江戸期から明治初期の古地図はふんだんにあった。

橋が大江橋ならば、太陽光線の方向など幾つかの「状況証拠」は揃ってきた。地図上にオブジェクトを置いてShade15によるシミュレーションを行うと、そこそこの結果を得ることができた。

さりながら、大江橋案には手前の川幅や、古地図に載っている「難波小橋」の存在や、川岸の道路などの問題があり、当然自信を持って断定できるよううな状態では無かった。

正直、ハラタマ家写真のキャプション「DoJima川」に囚われていた。

大阪河川の改修史など有りはせぬかと探してみたが、余が棲み暮らす地の果て僻地からでは術もなく、余の揚げたアドバルンのガスも徐々に脱けかけていた。

ところが、たまたま別件で、アルバム「VIEWS Of JAPAN」のdataを見ていたら、久しぶりに「これだ!」という電流が老人の脳味噌の中を駆け抜けた。

アルバム「VIEWS Of JAPAN」に、昨年来撮影場所を探していた写真Aと動じポジションの写真Cを発見した。

長崎歴史文化博物館のHPデータの解像度はわるく小っちゃな写真だが、問題の写真Aより立地状況が、より良くわかるアングルだった。キャプションは「大阪中之島」とあった。

なんと永見徳ちゃんの「珍しい」にもあった。

あとは簡単だった。

明治の大阪地図を広げて、写真Cにうつる三本の川に挟まれている地域と橋の条件を満たす場所を見つけて、検証をすれば良いだけだ。

こうしてようやく写真Aは、大阪川口外国人居留地からの一枚であることが判明した。

結局、余が推測の大阪までは正解だったが、堂島川に架かる「大江橋」案は消滅した。いくら仮想とお断りをしていたとはいえ、弊HPやFBで調子に乗り、世の諸大先生ごときの軽率な過ちを犯したことは情けなく思っている。反省いたします。

とはいえ、「VIEWS Of JAPAN」のおかげで、モヤモヤ一件がスッキリと解決した。ここに、そのプロセスのご報告と正解のチャートをお示し、現状の各書籍におけるキャプションの「誤り」を指摘しておく。

2015/10/4記