おもろ44

田村町交叉点

西新橋交叉点、昔は田村町交叉点。もっと昔は賣茶亭入口前。

飛行館スタジオがあったころの飛行館ビル。

今は日比谷通り。

現在の、東京都道405号外濠環状線と日比谷通りの交叉点「西新橋交叉点」は、余が社会人になった頃は、「田村町交叉点』と言っていた。田村町となったのは、戦後のことだそうだ。

交叉点より、日比谷を向いて右側二つ目のビルは、飛行館ビルといって、5階か6階にオーケストラを録音できる音楽スタジオがあった。

当時の音楽録りはすごかった。
なにせ録音テープのトラックが最大でも4トラックしかない時代であつたから、いまのように細々パート録りしてミキシングなどは不可能であった。
しかもCMは余韻込み28秒とか13秒でキッチリ上がらないと収まらない。
音楽録り専門の指揮者の先生がいて、それは見事に、ほぼ一発でコントロールしていた。演奏者たちも一流交響楽団員のアルバイトだ。収まらぬ筈はなかった。

ハナシ変わって、冒頭の古写真の建物のある場所は、芝桜田本郷町。まさに飛行館ビル、今の航空会館ビルのある場所だった。

日本料理&西洋料理店「賣茶亭(楼)」は始め桜田久保町そして、桜田本郷町5番地もしくは7番地にとあるが、移転をしたモノか地番が変わったモノかはわからない。いずれにしても、現在の日比谷通りと西新橋交叉点の北東角のあたりとなる。

写真のタイトルは「桜田本郷町賣茶亭并ニ岡田屋宅」とある。岡田屋はこの写真が載っている大日本全国名所一覧写真帖をリリースした「制造人」つまり制造販売元である。なるほど、西洋料理店の門脇のお店の中には、写真らしきものがいっぱい見える。西洋料理を食べに来る外国人様をキャッチするにはとても具合が宜しいと来ている。

例によって、古写真鑑定の最初の仕事、太陽の位置を見て見よう。
写真土産屋の小僧さんと人力車の梶棒の影は道路に対してやや時計回りに5〜10度。お店の前の大通りが20度ほど傾いていることから、太陽の位置は、北から115度から120度、高度はやや低い。
現在の材料では、おそい昼過ぎそして夏ではないぐらいしか、余にはわからない。

明治十四年の写真関係の番付にも、諸写真絵売捌所の中に、誤植愛嬌ながら桜田本郷町岡田清新堂の名前が見える。