おもろ45

浅草瓦町二十六番 地主 内田ウタ

写真は、内田九一と内田九一夫人と言われている女性の写真である。

夫人の名前は内田ウタである。

内田九一が明治八年二月に亡くなって、内田九一の写真館は弟子たちの協力で、細々と営業を続けたらしいが、詳しくはわかっていない。

浅草の内田九一の写真館、面白いことに、この写真館が何と呼ばれていたかの定説はない。

一般に、明治初年当時は、まだ「写真館」などという概念も言葉もなく、勝海舟は「九一のところで・・」とか「「内田で・・」もっぱら固有名詞である。

古写真の研究者もこのへんの地味な研究は敬遠して、体系的に納得できる説は皆無だ。

余はできるだけ「内田九一の写真館は・・」と一般名詞として、写真館という言葉を使うことにしている。同じ意味で、明治初頭の記事などにある「○○舎」などの「舎」も一般名詞として扱うべきと考えている。台紙や包装紙や看板などで確認できれば、まさに固有名詞として確立するものとする。

さて、

明治六年(1874)12月、東京府地券課が作成した東京市街地の地籍図(沽券圖)では、瓦町二十六番地の地主は會議所附とあるが、内田九一が亡くなった後の、明治十一年の地主案内には、二十六番 九十七坪 内田ウタとある。

瓦町二十六番は内田家の住居で、写場のある写真館は瓦町二十五番にあつたことを示す証拠書類となるのかも知れないとだけここでは申しておく。

この會議所とは、「江戸町会所」、「東京営繕会議所」、「東京会議所」への変遷の過程を経て、明治十一年三月に設立された、現在の商工会議所の前身である東京商法会議所である。

内田ウタが東京を去る明治十四年に際し、九一の弟子北庭筑波が名跡を継ぎ、ここを「九一堂萬寿」と号したと思われる。

一説には「旧内田舎」とあるが、このような表記は他の資料にみかけないことから、明治十八年の東京商工博覧絵第二編」に見られる通り「九一堂萬寿」が筑波の代になって用いられた屋号とするのが合理的だ。

内田九一の偉業を偲んで、その栄光にあやかろうと晴れ晴れしく「九一堂萬壽」としたが、結局明治の中頃には、人々の記憶から九一の名声もこの写真館も消えていくことになる。

下は明治四十五年の地籍台帳から同所の記録。 微妙に坪数が異なるのでその間何らかの出入りがあったのでしょう。

以前より内田九一が明治一・二年に横浜と浅草で営業を開始した当時から、この「九一堂萬壽」の屋号があったように言われているが、当時のいかなる資料や写真台紙にもそのような表記は存在していない。

左、北庭筑波時代の「九一堂萬壽」写真台紙の裏と、右、内田九一時代の写真台紙の裏。

左の「九一堂萬壽」には、東京浅草とのみ書かれ、横浜馬車道は書かれていない。さらにローマ字も「TOKIO」で、当初の「TOKEIO」とは表記法の時代が下がっている。そんなこんなで、これらの台紙を比較して見ても、開業当初から屋号を「九一堂萬壽」とする説は怪しいのだ。