夫人の名前は内田ウタである。
内田九一が明治八年二月に亡くなって、内田九一の写真館は弟子たちの協力で、細々と営業を続けたらしいが、詳しくはわかっていない。
一般に、明治初年当時は、まだ「写真館」などという概念も言葉もなく、勝海舟は「九一のところで・・」とか「「内田で・・」もっぱら固有名詞である。
古写真の研究者もこのへんの地味な研究は敬遠して、体系的に納得できる説は皆無だ。
余はできるだけ「内田九一の写真館は・・」と一般名詞として、写真館という言葉を使うことにしている。同じ意味で、明治初頭の記事などにある「○○舎」などの「舎」も一般名詞として扱うべきと考えている。台紙や包装紙や看板などで確認できれば、まさに固有名詞として確立するものとする。
さて、
明治六年(1874)12月、東京府地券課が作成した東京市街地の地籍図(沽券圖)では、瓦町二十六番地の地主は會議所附とあるが、内田九一が亡くなった後の、明治十一年の地主案内には、二十六番 九十七坪 内田ウタとある。
内田ウタが東京を去る明治十四年に際し、九一の弟子北庭筑波が名跡を継ぎ、ここを「九一堂萬寿」と号したと思われる。
一説には「旧内田舎」とあるが、このような表記は他の資料にみかけないことから、明治十八年の東京商工博覧絵第二編」に見られる通り「九一堂萬寿」が筑波の代になって用いられた屋号とするのが合理的だ。
下は明治四十五年の地籍台帳から同所の記録。 微妙に坪数が異なるのでその間何らかの出入りがあったのでしょう。
左、北庭筑波時代の「九一堂萬壽」写真台紙の裏と、右、内田九一時代の写真台紙の裏。
左の「九一堂萬壽」には、東京浅草とのみ書かれ、横浜馬車道は書かれていない。さらにローマ字も「TOKIO」で、当初の「TOKEIO」とは表記法の時代が下がっている。そんなこんなで、これらの台紙を比較して見ても、開業当初から屋号を「九一堂萬壽」とする説は怪しいのだ。