おもろ51

内藤鳴雪の京都写真

漢詩文では正岡子規の先生であり、俳句のほうでは正岡子規の弟子である、旧松山藩士の俳人内藤鳴雪はユニークなお人だ。
鳴雪という号は「なにごともなりゆきにまかす」ということであるという。
伝記を読んでみると、なるほどなるほど、おおらかでチマチマしていない。

ところで、余にとって、大いに興味をひくのは、この2枚の写真である。

キャプションはそれぞれに明治元年と明治二年とある。

鳴雪は明治元年の暮れに、藩命で経学修行が表、時勢探索が裏メニューということで京都に出て、薩摩藩のお抱え学者の水本保太郎の塾に入る。
ところが、翌明治二年早々、水本は東京の昌平学校の一等教授に招聘され、鳴雪も引き続き学生として水本について行くのである。

しかし、維新後のだらだらとした東京での学生生活に飽き、学問修学の命をやめ帰藩させて欲しいと申し出る。帰国がかない鳴雪は三月朔日東京を出発する。

この旅でも鳴雪は京都三条橋たもとの旅館に宿を取り、祇園・清水・知恩院・東福寺など見物したとはあるが、写真を撮ったなどという洒落た記述はない。(鳴雪自叙伝)

ではあるが、この2枚の写真は、明治元年から二年における二度の京都滞在の折に、撮られたものであることは十分に推測できる。

古写真の残念な宿命の例にもれず、ここでも現状のキャプションを安易に信じて、時期を特定することは許されないが、写真師が堀と堀内であることは間違いない。

余にとっていちばん興味深く面白いと感ずることは、当時京都で写真渡世の腕を競い合っていた、堀与兵衞と堀内信重の二大写真師の撮り比べをしていることだ。

はじめに撮ったのが気に入らなくてもう一軒の門を叩いたのかとか、
付き合いがいろいろあってとか、
その他いろいろと、
空想は尽きぬのだ。