おもろ54

トラップ

フルベッキ集合写真と称されている四五十人の男性が写っている写真がある。

その写真をモチーフにしたテレビフィクションドラマを見た。 このドラマで登場する写真は、明治の昔に、一度、明治維新を成し遂げた男たちの集合写真であると発表され世間を騒がせた。

昭和のなかごろ、再びこの話が持ち上がり、またまた世間を騒がせて、ついに平成のご時世に至っては、歴史ロマン好きなオッちゃんたちのお金をかき集める山師たちの荒稼ぎのお道具となってきた。

人々が面白がって食いつくものだから、もはやこの写真の素性を語る流は、外国人教師と佐賀藩の学生たちの集合写真ではなく、なにやら重大な謎を含んだ歴史的な重要証拠と言う説が主流となってしまっている。

この写真のなかの人物たちは、西郷隆盛や坂本龍馬や岩倉具視や勝海舟や桂小五郎や高杉晋作や・・・その他教科書に出てくるほとんどの幕末明治の歴史上の人物で、Freemasonryの命を受けて私かに集まり整列したという流れだ。

アクションノベル作家の壮大なフィクションの大雑把さに、余は(よくいうよ)と心で呟き、同時に(よくもこんなことを平気で信じる「歴史好き」の人がいるものだ)と、ひとり驚き呆れている。

余にとってはフルベッキ集合写に対するミスリードよりむしろずっと気になることがある。

それは、その作家の使う巧妙なレトリックだ。

無知で単純なおっさんやにいちゃんに、あたかも真実の光明を与えるがごとくのその淒技である。

実に巧妙であぶなかしいが、これはこれは、時の総理大臣顔負けのお見事なレトリックだと感心する。

たとえば、当代一流の学者に「事実」を堂々と語らせ、「・・と言えることも事実だ。だが・・」とアンチテーゼで、正論を一つの対立意見として締めくくる。

すると100%のオーディエンスは「おいおいまてよまてよ・・なんか外にあるのかよ?」と心の中で呟きぐっと身を乗り出すのだ。

上手いね。実に。

こんなレトリックの下に番組が構成されるのを知らされることもなく、「先生のこの写真に対するご意見は一つ残らずちゃんと伝えますから。」と聞き、取材に応じた(利用された)学者先生は、オーディエンスの無意識の心の中に、「えーえ、この先生、一見まともなこといっちょるようだが、ほんとは新事実を認めたくないのと違いまっか?」と、先生の説も先生の人格イメージまでも、ダメ出しのレッテルを貼られてしまう。

実に実に気の毒だが、学者先生は、古典的なプロパガンダで利用されるトラップに引っかかってしまったのだ。

写真は記事よりも強力に人々の心理や感情を支配するアイテムであり血を流さないで人も殺せるほどの鋭利な「刃物」であり「凶器」でもある。

なぜ「刃物」かというと、その用いられ方のほとんどは,人々の心を安らげ心を豊かにするために、一瞬の時間や感情や空気や風景を切り取れるからだ。

しかし、写真は、使う人の意図により、人と人を争わせたり、人を不愉快にさせたりする凶器ともなるのだ。

実の世の中は、フィクションも事実も現実も判断出来ない多くの人々が斯様に右だ左だと牧羊犬に追われる羊たちのように、好き勝手に操られているのだ。

こわい。こわい。

こんなチャートを昔作った。