おもろ59

東京新橋江木写真店六層の高塔

先ず結論から申し上げよう。

分からんことがいっぱいだから
古写真は面白いのだ。と。

冠の古写真は明治の中期に愛宕山山頂より日比谷から新橋の方向にレンズを向けて撮られたものだ。

この度はこの写真をご所有のHiroshi Muraishiさんのご了解を得て、この写真に残された明治の面影のひとつを探って見ようと思う。

とはいっても、この話はすでにHiroshi MuraishiさんのFBによって十分に検討されたことの二番煎じであることは申し上げておきます。

ところで、愛宕山からの古写真の右上にある赤く色付けされた塔は何だ?

この塔は明治二十四年末に竣工した新橋丸屋町三番地の江木商店江木写真店新橋支店の六層の塔である。

この高塔の存在から、愛宕山からのこの写真は、明治二十四年以降に撮られたものであり、赤く色づけされた塔がその証拠となるわけだ。

日頃、古写真は明治の中期とか幕末期とかたいへんアバウトに紹介されることが多い。

たとえ3・4年いや10年20年それがずれていてもむろん世間一般は何一つ困らない。

人間だって見た目と実年齢にギャップがあるのは当たり前、それと変わらないよというイージーな結論と同じだ。

しかし、古写真に興味を持ってしまうと、余のような性格がアッパラパーなB型の人間でも、もっと正確にと証拠を探したくなるものなのだ。これがまさに古写真を見て楽しむ事の魅力なのだ。

上左の写真は前掲の古写真の有楽町大手町方向をセンターにし拡大されたものだ。

すごく!よく見えます!分かります!とは言えないが、ありがたい情報が満載だ。すごく!よく見えます。分かります。

上右の写真は、赤く色付けされた塔、すなわち、明治二十四年末に竣工した新橋丸屋町三番地の江木写真店の六層の高塔である。

ここには現在、現在静岡新聞静岡テレビのビルが建っている。

その手前、人がぞろぞろ歩いている所が、お堀を横断する通路として設けられた堤を称して名付けられた橋、すなわち現在も地名として残る土橋である。

江木写真店の六層の高塔の写真をよく見ると右隣にもう一つ塔がが写っている。

これは、明治十年ごろ竣工とされる、新橋八官町九番地時計商小林傳次郎の小林時計店本店の時計塔である。

いまは、ホテル・ザ・セレスティン銀座の有る場所だ。おっちゃんおばちゃんには日航ホテルがあったところの方が通じるかもしれない。

古写真好きに限らず人類は、ここで新たに江木写真店や、小林傳次郎に興味の芽を分岐させるのが普通なのだが、それを我慢で、今はこの古写真についての本線をズンズン進む。

では、小林時計店本店は愛宕山山頂よりの写真の何処にある?

もういっかい、古写真の拡大部分を見て見よう。おお、拡大助かる。

あったあった、赤く色付けされた塔の左方に時計塔らしき建物が有った!!

ああこれが、新橋八官町九番地小林時計店本店か!とにわか判断し、並みのおっちゃんの検証はこれで終わる。

しかし、今回は終わらない!

さて、どうして?
それは「そのにわか判断が 間違い」だからだ。

じゃあ赤○で示された塔はなんじゃい? 

さて、新橋銀座地区に存在した時計塔や高塔の配置と愛宕山からの古写真のアングルを確認するために、当HP恒例のShadeでのシミュレーション検証を試みるとしよう。

まずどんなものがその時代に存在していたか確認しよう。

右上の地図もどきの図で一番手前が、
新橋丸屋町三番地
江木写真店の六層の高塔だ。
明治二十四年末の竣工である。

この塔の高さは「海を抜くこと102尺」と江木写真店の記録にはあるが、102尺は建物の実尺ではなく、てっぺんまでの高さが海抜102尺に届くと、かなり盛って宣伝している。実際に102尺約30メートルで建物をシミュレーションするとこの構図に全く収まりがつかない結果になった。

つぎが、
新橋八官町九番地
小林時計店本店の時計塔。
竣工は明治十年ころとある。

さらに奥まって、
銀座四丁目
服部時計店初代の時計塔。
竣工はこの四つの中で一番若い明治二十七年である。

そして、一番奥に、
銀座四丁目
時計商京屋時計店銀座支店の時計塔。
竣工は明治九年である。

これら四つの高塔はたまたま愛宕山に向かってほぼ一直線に並んでいる。

これ以外にこの地域には、他にも幾つか高塔は存在したが、京橋日本橋神田などと距離が離れていたり、画面から見切れる場所にあるということでdata的には割愛したとあらかじめ申しあげておく。

さて、Shadeによるシミュレーション検証を始めよう。

シミュレーションは先ず各建物の配置の基準となる地図を作ることからスタートする。

参考史料となる明治期の地図は様々あるが、余が今回の基準に用いたのは明治二十年の「東京五千分ノ一」である。

五千分ノ一の都合の良いところは建物の配置が具体的に描かれていることだ。

御多分に洩れず地図は、街という生き物のほんの一時のしかも断片的な記録で、全てが正しくもあり間違いでもある可能性を常に保持している。

このやっかいな言わば誤差を合理的に調整し現代の地図と対応させる作業は、正直「錬金術」レベルの罪悪感を感じてしまうが、赦せよと、おおらかなる読者諸氏に前もってお許しを請うておく。

愛宕山階段を上がったちょい南よりにおそらくカメラは据えられた。上図のハイライト範囲が検証古写真で写っている範囲だ。 そうして出来上がった地図をテンプレートに用い、その上に時計塔や高塔などのオブジェクトを一つ一つ置いていく。 こんかい土地の高低については、愛宕山を除いて考慮無しでおこなった。


大きくして見て下さい。

で、検証開始!

検証① 赤○の塔は?

改めてシミュレーション作図と実際の拡大部分を比較して求めるのは、先ずは赤○の塔の確認からだ。

赤○の塔はシミュレーション作図から見ると、

銀座四丁目の
京屋時計店銀座支店の時計塔
服部時計店初代の時計塔 
だ。

なれば、明治十年竣工の小林時計店本店の時計塔が何処かに?無ければならん。となる。

検証② 小林時計店本店の時計塔は何処?

もし赤○が小林時計店本店の時計塔だと早合点していたら、明治九年竣工の京屋時計店銀座支店の大時計や明治二十七年竣工の服部時計店初代の時計塔が古写真から消えたことになっていた。そんなことは絶対無い。

上図は明治二十七年以前の設定のシミュレーション作図だ。

シミュレーション作図では江木写真店の六層の高塔の隣に小林時計店本店の時計塔が見える。

よーく目を懲らして古写真の拡大部分青○の中を見ると、うすぼんやりだが、確かに丸いものがちゃんと有るではないか。

直径六尺と記録にある小林時計店本店の大時計の文字盤だ。

まずはばんざーい!

上図は明治二十七年以後の設定のシミュレーション作図だ。

明治二十七年以後の設定では、同じ銀座四丁目にある、京屋時計店銀座支店と服部時計店の二つの時計塔は、やや重なって見える。

一方、古写真の拡大部分ではそれらしきものは

一つである。

また、

明治二十七年に竣工した服部時計店初代の時計塔は、京屋時計店銀座支店や小林時計店本店のそれと比較をすると、建物一層分以上も塔高は高い。

実は各時計塔や高塔などの詳細な建築dataが無いため、シミュレーションのオブジェクトは実在写真をもとに3D上の空間でトライアンドエラーのすえ取り敢えず設定したものである。

ゆえに、必ずしもドンピシャではないが、高さ大きさ等はおおむね「正解」からは遠からじと、あいまいに読者さまにはほぼ結論の出かかったこの期に及んでお許しを請うておく。

検証③ 赤○の塔は 京屋か? 服部か?

大時計の文字盤の中心の高さを、ほぼ同アングルのシミュレーション作図と、実際の古写真で比較した。

比較の結果、件の赤○の塔は、文字盤の中心の高さの違いから、

赤○の塔は、京屋時計店銀座支店の時計塔

であろうと結論できた。

おまけの結論

よって、この愛宕山山頂からの古写真には服部時計店初代の時計塔は写っておらず、

写真の成立時期は、江木写真店の六層の高塔が竣工した明治二十四年末から、服部時計店初代の時計塔が姿を現す明治二十七年までの、2年の間のものである

と判明した。

めでたし!めでたし!

以上で、このシミュレーション検証の幕を閉じるとする。 ご精読ありがとうございました。

尚、今回の検証に際し史料写真の使用をご快諾下さった Hiroshi Muraishi様に心からの感謝を申し上げます。

2018/06/16記