この度はこの写真をご所有のHiroshi Muraishiさんのご了解を得て、この写真に残された明治の面影のひとつを探って見ようと思う。
とはいっても、この話はすでにHiroshi MuraishiさんのFBによって十分に検討されたことの二番煎じであることは申し上げておきます。
日頃、古写真は明治の中期とか幕末期とかたいへんアバウトに紹介されることが多い。
たとえ3・4年いや10年20年それがずれていてもむろん世間一般は何一つ困らない。
人間だって見た目と実年齢にギャップがあるのは当たり前、それと変わらないよというイージーな結論と同じだ。
しかし、古写真に興味を持ってしまうと、余のような性格がアッパラパーなB型の人間でも、もっと正確にと証拠を探したくなるものなのだ。これがまさに古写真を見て楽しむ事の魅力なのだ。
すごく!よく見えます!分かります!とは言えないが、ありがたい情報が満載だ。すごく!よく見えます。分かります。
上右の写真は、赤く色付けされた塔、すなわち、明治二十四年末に竣工した新橋丸屋町三番地の江木写真店の六層の高塔である。
ここには現在、現在静岡新聞静岡テレビのビルが建っている。
その手前、人がぞろぞろ歩いている所が、お堀を横断する通路として設けられた堤を称して名付けられた橋、すなわち現在も地名として残る土橋である。
江木写真店の六層の高塔の写真をよく見ると右隣にもう一つ塔がが写っている。
これは、明治十年ごろ竣工とされる、新橋八官町九番地時計商小林傳次郎の小林時計店本店の時計塔である。
いまは、ホテル・ザ・セレスティン銀座の有る場所だ。おっちゃんおばちゃんには日航ホテルがあったところの方が通じるかもしれない。
古写真好きに限らず人類は、ここで新たに江木写真店や、小林傳次郎に興味の芽を分岐させるのが普通なのだが、それを我慢で、今はこの古写真についての本線をズンズン進む。
あったあった、赤く色付けされた塔の左方に時計塔らしき建物が有った!!
しかし、今回は終わらない!
さて、どうして?
それは「そのにわか判断が 間違い」だからだ。
まずどんなものがその時代に存在していたか確認しよう。
右上の地図もどきの図で一番手前が、
新橋丸屋町三番地
江木写真店の六層の高塔だ。
明治二十四年末の竣工である。
つぎが、
新橋八官町九番地
小林時計店本店の時計塔。
竣工は明治十年ころとある。
これ以外にこの地域には、他にも幾つか高塔は存在したが、京橋日本橋神田などと距離が離れていたり、画面から見切れる場所にあるということでdata的には割愛したとあらかじめ申しあげておく。
五千分ノ一の都合の良いところは建物の配置が具体的に描かれていることだ。
御多分に洩れず地図は、街という生き物のほんの一時のしかも断片的な記録で、全てが正しくもあり間違いでもある可能性を常に保持している。
このやっかいな言わば誤差を合理的に調整し現代の地図と対応させる作業は、正直「錬金術」レベルの罪悪感を感じてしまうが、赦せよと、おおらかなる読者諸氏に前もってお許しを請うておく。
赤○の塔はシミュレーション作図から見ると、
銀座四丁目の
京屋時計店銀座支店の時計塔か
服部時計店初代の時計塔
だ。
なれば、明治十年竣工の小林時計店本店の時計塔が何処かに?無ければならん。となる。
まずはばんざーい!
明治二十七年以後の設定では、同じ銀座四丁目にある、京屋時計店銀座支店と服部時計店の二つの時計塔は、やや重なって見える。
ゆえに、必ずしもドンピシャではないが、高さ大きさ等はおおむね「正解」からは遠からじと、あいまいに読者さまにはほぼ結論の出かかったこの期に及んでお許しを請うておく。
大時計の文字盤の中心の高さを、ほぼ同アングルのシミュレーション作図と、実際の古写真で比較した。
めでたし!めでたし!
以上で、このシミュレーション検証の幕を閉じるとする。 ご精読ありがとうございました。
尚、今回の検証に際し史料写真の使用をご快諾下さった Hiroshi Muraishi様に心からの感謝を申し上げます。