おもろ60

赤着色の煙突状のものは何なの?

愛宕山山頂からの古写真 続き②

さてさて、
愛宕山山頂からの古写真で、上手に赤く着色された建造物は、京橋区丸尾町の江木写真店の名物タワーであることはすでに判明したが、中央の赤着色の煙突状のものは何なの?という疑問は残っていた。

地図上で見ると、方向は、銀座京橋八丁堀方面であることは容易に知れた。

で、銀座界隈の明治の写真を中心にあれこれ探してみた。

長崎大学のデータベースに、新橋南金六町の角に搏品館の時計塔ができる前の、新橋から銀座四丁目方面を望む写真があった。

何とそこに、お尋ね者の姿を認めた。

再び地図上で、新橋から銀座七丁目六丁目方向に線を引き、愛宕山から引いた線の交点を求めた。

大雑把に銀座一二三丁目の西側当たりがその範囲だった。

野口孝一編著「明治の銀座職人話」をパラパラした。

この記録は現銀座四丁目当時弥左衛門町の葛籠屋秋田屋五代目浅野喜一郎翁(明治31年生)による回顧メモがソースとなっている。

残念ながら、それには大きな煙突の事や工場の記述は見えなかった。

ただ、新肴町に「東京電灯の配電所があり」とあった。

それを頼りに東京電灯をWebで当たってみた。でた!

以下は日本電気協会関東電気協会HPから

■銀座の電灯供給の始まり

日本電気協会関東電気協会HP

明治21年(1888)12月20日、東京電燈会社(東京電力の前身)は、京橋区新肴(さかな)町に設置した第3電燈局(小規模の火力発電所)から、銀座地区へ配電線による電灯供給を始めました。これは、錦絵にも描かれた銀座街頭における、移動式発電機によるアーク灯点灯から6年後でした。

第3電燈局は、同社の開業時期に麹町(第1)、日本橋(第2)、京橋(第3)、神田(第4)、千束(第5)に設置した五つの電燈局(発電所)の一つで、名称番号より一つ後の4番目の竣工でした。

その後、当電燈局は、明治29年(1896)の浅草火力発電所から既存電燈局への交流による一括送電に伴い、蒸気機関などの発電設備が取り除かれ「配電所」と名称を変えました。

以上 Danke! 

ありがたやありがたやで、ようやく、中央の、赤着色の煙突状のものは、明治29年まで存在した、京橋区新肴町十五番地の東京電燈会社第3電燈局の火力発電用の煙突だったことが判った。

成果はたったこれだけど、古写真を見てあれこれすることは楽しい。

ジャンジャン!

オマケに神田錦町の第4電灯局の煙突が写る写真をどうぞ。

2018/07/08記