囂kamabisuan庵

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6月1日

蕎麦はまだ花でもてなす山路かな
(そばはまだ はなでもてなす やまじかな)

蕎麦も見てけなりがらせよ野良の萩
(そばもみて けなりがらせよ のらのはぎ)
 けなりがる とは、羨ましがること

三日月に地は朧なり蕎麦の花
(みかづきの ちはおぼろなり そばのはな)

三日月や地はおぼろなる蕎麦畠
(みかづきや ちはおぼろなる そばばたけ)

蕎麦という言葉が使われた句だ。

ちなみに米は8句。
麦は11。
芋は7句。
汁は6句。
味噌は1句。
塩は4句。
酒は14。
さてさて、さて、

あるところに、ひまな老人がおりました。

老人は数年来当地の「手打ち」のお蕎麦屋さんを積極的に訪ね歩いてきた。

以前から老人は、数多のお店の定休日をいちいち記憶できないので、そのメモ代わりにお蕎麦屋番付と称するものを作っていた。

で、この度、老人は心を鬼にし、本気の番付なるものを考えてみた。


並べて見て気がついた。

これは完璧にこの偏屈老人の好みによるセレクションだということ。

でも、製麺機使用の大店はリストにさえ入らなかった。

リストインした上位は、どこも麺打ち場がちらりと見え、それでいてあまり主張をしないようなお店だった。

つまり、お蕎麦に関してむっつり助平っう感覚のお店だ。

「うちは!うちは!」と偉そうに職人気質をひけらかす本物助平なお店は、老人の嗜好の川のかなり下流に流された。

つまり、つまり、

「たかが蕎麦」感がことさら老人には重要で、「されど蕎麦」感の方は全く好きではないことがわかった。

中でも、老人がえらく下品さを覚えるのは、意味もなく小盛りであったり、天ぷらに天汁がなかったり、蕎麦湯をわざわざドロドロにして自慢気に持ってくるやつ・・

とはいえ、老人本人も相当下品なる人物だから、同類の他人を下品だからといって決して見下げたりはしない。

むしろ上品の道の極まりが下品の道というパラドックスを哲学し、むしろ好意的に支持してあげる。

結局、老人が、横綱大関関脇小結に選んだお店は、上品でもなく下品でもなく、不味くなく、このクソ老人にとってただただ居心地が良いお店ということに尽きたようだ。

そして老人はいう。

蕎麦は、十割だ!更科だ!田舎だ!ではなく、二八の細切りを、辛めの内にちょい甘の汁で啜るもの。

だそうだ。

蕎麦の細道より

行蕎麦屋席無き爺の目は泪 半可ξ
(ゆくそばや せきなきじじの めはなみだ)

奥=>蕎麦 の細道
行く▪️や▪️啼き▪️の目は泪
春=>蕎麦 鳥=>席 魚=>爺

6月14日

蕎麦はまだ花でもてなす山路かな 芭蕉
(そばはまだ はなでもてなす やまじかな)

元禄七年九月三日。伊賀上野。

秀句の一つと言われている句だと。

お客人がお越しになったので、蕎麦でもと思ったが、その蕎麦もまだ花の盛り。せいぜい花でおもてなしいたしましょう。って。

さてさて、さて、

三年ぶりに片道20km自転車こいで、ど田舎のお蕎麦やさんに行ってきた。


このお店、挽きたてにこだわって、毎日石臼で蕎麦を挽くので一日10食しか提供されません。

ゆえに知る人も増え、近頃は予約をしないと全く無理だそうだ。


本日余はノー予約で11時に着いたのだが、やはり、すでに本日完売のサインが出ていた。

あららと帰りかけたらご主人が出てきて、お一人か?と声をかけてくださった。

そうだと答えると、お一人分ならありますよ! とのご親切。


で、戴けた。

よくよく考えてみると、多分、ご主人のお昼用を、余が横取りしちまったようだ。

ありがたやである。

正真正銘の挽きたては実にうまい。

食べ終わって小一時間いやそれ以上も口内に蕎麦の繊細な味が残り続きましたぜ。ほんと!

ご主人は屋敷畑で蕎麦を栽培されており、本当に蕎麦が好きなんだなとわかりますです。


蕎麦は蒔いて十四日目だそうです。

蕎麦はいま双葉でもてなす樹庵かな 半可ξ
(そばはいま ふたばでもてなす じゅあんかな)


6月17日

大比叡やしの字を引いて一霞 芭蕉
(おおひえや しのじをひいて ひとがすみ)

延宝五年江戸にて。

古文書などの「し」と言う文字は、なぜか妙に長く引っ張る。

昔むかし、あの一休さんが比叡山の坊さんに「とにかく超でかい字を書いて、私を驚かせてくだされ」と言われ、頂上から麓までひたすら一本の線を引き続け、とてつもなく長い「し」を書きましたとさ。

この噺をモチーフに檀林風の言葉遊びの洒落句ですわな。

さてさて、さて、広大な原野と農地の間に来年春柿落としの北海道日本ハムの新球場ができる。

先日蕎麦紀行の途中その姿を遠くから、そして近くから眺め見た。




近づけば近づくほど大きさを感じなくなるから不思議な気がした。

新球場への字を書いて一霞 半可ξ
(しんきゅうじょう へのじをかいて ひとかすみ)

6月28日

誰やらがかたちに似たり今朝の春 芭蕉
(だれやらが かたちににたり けさのはる)

貞亨四年新春。この春、江戸蕉門の嵐雪が俳諧宗匠として立机。嵐雪は、芭蕉への開業?の挨拶として正月小袖を贈呈したという。と。

それはそれとして、



過日仙台の伊達くんからお名刺をいただいた。

自己顕示欲とユーモアに富んだ性格の伊達くんらしく、お名刺のメインビジュアルは、自画像アレンジの私用の「花押」だ!

肖像画と比べてみても、そっくり! 

肖像画の絵師は気を使ったのか控えめだが、自画像キャラは、伊達男で鳴らした若いときの面影なんかなく、チョイ太のチョイ悪の中年おやじそのもの。

伊達くんのおおらかな、いい性格感じられて、なんとも恐れ入谷の鬼子母神。

でもさ、もっとびっくりは、東北ご出身の西田敏行さんに瓜二つ。

土地の顔ってあるよね!

誰やらがかたちに似たり伊達の瓜 半可ξ
(だれやらが かたちににたり だてのうり)

じゃあ、若いときは? で、
青年座時代の西田敏行さんの写真。


追記:花押のモチーフは、神の使いの鳥ハクセキレイだそうだ。

で、マジに、半可ξの伊達くんの悪のり自画像論が正しそうな気分になってきた。

伊達くん「余は神様の使いじゃ!」とね。


囂kamabisuan庵