囂kamabisuan庵

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12月1日

月白き師走は子路が寝覚め哉 芭蕉
(つきしろき しはすはしろが ねざめかな)

貞亨三年師走。と。

師走の月は凛として冴えわたる。その一点の曇りもない白く澄みわたった師走の月は、あの孔子の弟子子路の心にも似た 真っ直ぐな想いを表しているような気がすることだ。とか。

何とつまらない解釈だこと。

余だったら、俳諧師桃青すなわち芭蕉さんの遊び心をメインに汲み出す。

つまり・・白→子路→迷惑男→師匠先生いろいろと忙しくなる→師走

まっ白な冬の月が、ああもう師走だぜと、ゆうとります。

まっ白・・つうことは、あの粗野でがさつな「子路」のやつが起き出して、いろいろ面倒を引き起こし、孔子せんせを困らせて、せんせ、彼方此方に詫びてまわったり、奴さんを諭したりで忙しくなりまんな。

なにせ、子路公のやつは「男はつらいよ」の「寅次郎」、孔子せんせは「御前さま」の役回りじゃけんの。

で、まあ、これがほんとの師走だわさ・・と下らないおちゃらけを言っとるんでんがな。

これが侘び寂び開眼前の俳諧師桃青の「芸」ざますよ。

そこんとこ、とくに、よろしくね。

風寒き師走はインフル寝覚め哉 半可ξ
(かぜさむき しわすはいんふる ねざめかな)

方々、外出したらうがい手洗い丁寧に。
お医者さんを走らすことなく・・・ご自愛あれ。


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12月2日

来てみれば獅子に牡丹のすまひかな 芭蕉?
(きてみれば ししにぼたんの すまいかな)

芭蕉の句かどうかは確定をしていない句だすが、もし芭蕉の作とすれば、貞亨五年『笈の小文』の旅で大垣の谷木因邸を訪れた際の挨拶吟。とか。

翌元禄二年『奥の細道』の旅の後、再び立ち寄って、
 隠れ家や月と菊とに田三反 芭蕉
を詠んでいる。と。

さてさて余はメタボ対策として、1日あたり120キロカロリー以上の有酸素運動が必要なのだが、毎日毎日とは、いと面倒なりだ。

昨日は、寒風に耐えながら一万歩を歩まんと、徒歩→バス→徒歩→地下鉄→徒歩で近代美術館へ、高倉健追悼特別展を見に行った。

まさに
 来てみれば獅子に牡丹のすまひかな
であった。

近代美術館からは、徒歩→蕎麦屋喜香庵→徒歩→市電→徒歩→JR→徒歩で自宅に戻った。

表示上は、12,523歩、419キロカロリーだが、ほとんどがダラダラ歩き故、お調子をこいてはいられない。

高倉健追悼特別展は超短いハイライトシーンのコラージュ映像展示が満載だった。

しかし、館を出るに際し、嘗てのように、肩で風を切り、健さんに成りきって歩むお姿の御仁は皆無だった。

一万歩冷たき風のドスの雨 半可ξ
(いちまんぽ つめたきかぜの どすのあめ)


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12月3日

暮れ暮れて餅を木魂の侘寝哉 芭蕉
(くれくれて もちをこだまの わびねかな)

天和元年年末、芭蕉38歳芭蕉庵での作。と。

世間様はぺったんぺったんと実に景気のよい中で、売れない俳諧師にあっては、実にしけた話の句であると思うのは大間違いさね。

このころは、町人層の富有化と武士層の貧困化が、ますます顕著になっていく時代であったことは確かだわさ。

つまりは、越後屋が政治に口を出せる時代の到来だ。

実のところ、芭蕉にとって、ご近所四方のぺったんぺったんは、豊かなお正月を迎えられる前奏曲として聞こえているのだわさ。


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決して貧乏層に落こぼれちまったつーう嘆きでは無いのであーる。

世の中には、お金と時間がたっぷりのお弟子さん市場がどんどんと拡大しとるちゅーわけだす。

そうそう、お金持ちのお弟子さんを、新規にばんばん開拓すればいいんです。

侘び寝なんて言って・・ひねてみせて、人を笑わせ、餌を撒き・・「俳諧するなら金をくれ」と催促している句なんザンスよ。

ずるいですね。
でも、それが俳諧師本来の甲斐性ですから、いいんです。

さて、当世の貧乏人は、ひねてみても、人を笑わせても、ダメです。
逆に自己責任が問われます。

ご時世です。

一方、現今のお役所には自己責任という考えは端から無いんです。
グダグダと国費を無駄遣いして、足りなきゃ増税だ!!

くれくれと予算取り合ふ冬の陣 半可ξ
(くれくれと よさんとりあう ふゆのじん) へんなご時世ですね。

12月4日

さまざまのこと思ひ出す櫻哉 芭蕉
(さまざまの ことおもいだす さくらかな)

貞享五年春。
旧主家藤堂家別邸の花見に招かれての作。と。

唐の劉廷芝の「代悲白頭翁」の気分の句だ。と。

 古人無復洛城東
 今人還対落花風
 年年歳歳花相似
 歳歳年年人不同

突然ですが、

 歳歳年年「流行語」不同
 さいさいねんねん 流行語 同じからず

今年の 新語・流行語大賞は「忖度」だ。


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ほんに「忖度」のしまくり、されまくりに、呆れたこの一年であった。

しかし、忖度ぐらいは許してやるが、証拠の隠蔽や破棄や偽証や忘却ごっこやおとぼけは、人として、絶対に許せない。

さまざまのこと思ひ出す枯野哉 半可ξ
(さまざまの ことおもいだす かれのかな)


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12月5日

今朝東雲のころ、木曽寺の鐘の音枕に響き、起きいでて見れば、白妙の花の木に咲きておもしろく

ひごろ憎き烏も雪の朝哉 芭蕉
(ひごろにくき からすもゆきの あしたかな)

つね憎き烏も雪のあした哉 芭蕉
(つねにくき からすもゆきの あしたかな)

元禄三年暮れ。大津にて。と

カラスは芭蕉さんの時代でも嫌われ者でござんした。
一方、俳画や墨絵などの画材として、その道のお方にはたいへん?好まれてもいましただ。

特に雪とカラスは、相性がよござんしたねえ。
雪舟さんも蕪村さんも若冲さんもみなさん一通り描いておられますだ。

さて、前回降った雪が消えたと思ったら、ドカン。

この時期の雪はまだまだ、朝一番、余には新鮮な気持ちを与えてくれますな。

余の住むところのTV受信アンテナに、毎朝毎夕、番のカラスが一時佇む。

余は哲学カラスご夫妻と呼んで、さほど邪険にはしておらぬが、こうして、新鮮な雪の景の中で見ると、一段と哲学的で何かおくゆかしさを感じますだ。

ひごろ見し烏も雪のあした哉 半可ξ
(ひごろみし からすもゆきの あしたかな)


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12月6日

ひよろひよろと転けて露けし女郎花 芭蕉
(ひょろひょろと こけてつゆけし おみなえし)

露けしは、露を大量に浴びた感じを表す言葉。と。
更科紀行での句と。

女郎花は大昔から歌人に好まれた秋の草花だそうだす。
古今集に、朱雀院の女郎花合によみてたてまつりけると、右大臣藤原時平の和歌がござんす。

 をみなへし秋の野風にうちなびき
 心ひとつをたれによすらむ

和歌は俳句に比べると、実に素直でよろしいでんな。

芭蕉さんは、時平と同じ光景を、多少滑稽に女郎花をさらに擬人化して詠んでおるんだすな。

つまり、女郎花は、いろっぽくも、せつなくも、弱々しく可憐な美しさとあやしげなもろさを持っていて、おら、こういう女郎花みたいな痩せぎすのおなごはんが好きだ。っう句ですな。

もちろん後半は余の冗談だけど。

さて、
ご存知の方はご存知だが、
余は、毎月3ゲーム年に36ゲームのボウリングを、15〜6年続けている。

余の偏屈振りをご披露して恥ずかしいが、それも一人でだ。

アベレージは130をそこそこkeepできれば上々という程度のへたくそだ。

去る12月4日に今年の投げ納めをした。

ひょろひょろと転けそで転けぬ老狸 半可ξ
(ひょろひょろと こけそでこけぬ おいたぬき)

ピンもおひらもひょろひょろと、転けそで転けないから、まあいいか。

ちなみに狸は冬の季語。


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12月8日

湯の名残り今宵は肌の寒からん 芭蕉
(ゆのなごり こよいははだの さむからん)

元禄二年八月五日頃。と。

『奥の細道』旅中、山中温泉で、「宿のあるじ挑妖に書きて給ぶ」とある。

芭蕉さんの「寒からん」は宿のご主人の暖かい持て成しに対して、もうそれが受けられないと思うと「心が・・」だが、余の場合はほんに「身体が寒からん」であった。

昨日初めて、超安い440円日帰り天然温泉に参じた。

着いて一風呂浴びて餡かけ焼きそばと麦酒一缶してたら、外は猛吹雪。

湯屋前のカーズことごと寒からん 半可ξ
(ゆやまえの かーずことごと さむからん)


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12月13日

元起和尚より酒を賜はりける返しに奉りける

水寒く寝入りかねたる鴎かな 芭蕉
(みずさむく ねいりかねたる かもめかな)

貞亨三年冬。と。 元起和尚なる人物は不詳。と。

隅田の川風がえらくちゃっぷいと、カモメちゃんとてよう眠れんだろうが、私芭蕉も同類で難儀しておりましたところに、和尚様から般若湯のお差し入れ、これは有りがたくとても良い心持ちで眠ることができました。とスナオに御礼を述べているっう句ですと。

この二三日寒波寒波。

昨日旧暦十月二十五日は「熊穴に蟄す」だそうで、そろそろ本格的な冬の到来っうことですかね。

熊が冬眠の前には脂肪を蓄えねばといろいろグルメするようですが、余も昨日、冬眠にあたり脂肪を蓄えに当地ではわりと評判のよいトンカツ屋に徒歩で・・

あしもとつるつる。

小股でちょこちょこ歩いてとうちゃこ。

距離の割には歩数が少ない。

北下し歩みかねたる爺哉 半可ξ
(きたおろし あゆみかねたる じじいかな)


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12月21日

仙風が悼み

手向けけり芋は蓮に似たるとて 芭蕉
(たむけけり いもはちすに にたるとて)

天和年間の作らしい。と。

仙風っう人は、杉山杉風のお父さん。

杉山杉風は、鯉屋藤左衛門。芭蕉の後援者で弟子。
いわば実直な、アッシー・メッシーくん。

しかし、ふざけた話でだすな。

とても世話になっている人の父さんの手向けに、
蓮の華も葉っぱもねえし、
ああそうだ、里芋の葉っぱ蓮とそっくりだから、これでいいべ・・。

いくら俳諧師仲間とて、どうでっかこの宗匠の態度・・

さて、似たものといえば、
先日この写真の小道具の机とお盆によく似た小道具を使っている写真を見た。

写真は、デンマーク国立博物館藏の上野彦馬。

古写真を鑑定するにあたり、小道具や敷物がどうのこうのはよくあるはなし。
でも、それらは一般商品だから、じつはどこにでもあるもので、たまたま偶然ということも時にはあるかもね。

手向けけりお茶はお酒に似たるとて 半可ξ
(たむけけり おちゃはおさけに にたるとて)

オイラだったら化けて出てやります。


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12月23日

秋風や桐に動きて蔦の霜 芭蕉
(あきかぜや きりにうごきて つたのしも)

梧動く秋の終りや蔦の霜 芭蕉
(きりうごく あきのおわりや つたのしも)

元禄四年と。

はじめに、秋風やが出来、桐動くに改まったと。

桐と蔦の関係に秋が深く関わっているらしいが、何処か意味深で、余のようなアホにはその奥が理解できない句だわさ。

桐と言えば、天皇家や日本国の紋章にも使われている。 蔦と言えば、藤堂家のそれだ。

時代はまさに、徳川綱吉側近の柳沢吉保が幕府随一の実力者となっているときださ。

公儀(桐)第一の藤堂家(蔦)としては、吉保はじめその家族や家臣にも頻繁に贈り物をし、備前池田、肥後細川、讃岐松平などとともに「柳沢家の玄関番」と陰口を叩かれても忖度付け届け作戦だ。

これも藤堂家伝統の忖度損無し、今様佐川流の世渡り術だわさ。

そんなかんなで、元禄バブルとともに落ちぶれていく(秋)武士階級の情けなさを、俳諧師根性復活で芭蕉はせせら笑っている、なんっう理解しか余にはでけんずら。

斯く動く秋の終わりや米相場 半可ξ
(かくうごく あきのおわりや こめそうば)

カードゲームじゃなくて、楽しく優しいプレゼントがいいな。


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12月24日

小野炭や手習ふ人の灰ぜせり 芭蕉
(おのずみや てならうひとの はいぜせり)

延宝八年、芭蕉37歳の作。と。

小野炭は山城の国小野の里から産する木炭で、風流人にとても珍重された。と。

小野炭→墨→小野道風→書の名人→手習い

言葉遊びの俳諧時代の句だす。

火鉢の中の白灰に火箸とか均し鉄で字を書いたなんてことをやった人はもうみんな死んじまっていないだべな。

余がご幼少で、まだ文字が書けも読めもしなかった頃は火鉢が室内暖房器だったずら。

文字を読み書き出来る頃の室内暖房器はアラジンの石油ストーブでござんした。

火鉢の灰でお勉強できない不憫な子等のためにと、100均の磁性シートで余計なものを作ってみた。

いちとにと足せば幾つと老の暮れ 半可ξ
(いちとにと たせばいくつと おいのくれ)


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12月25日

なりにけりなりにけりまで年の暮 芭蕉
(なりにけり なりにけりまで としのくれ)

延宝四年、33歳。と。

月日のたつのも早いもんで、今年もあっちゅうまに年末と「なっちゃいました」なんて言ってたうちに、どうもどうも新しい年に「なりましたなあ」・・とくる、イマイチの言葉遊びの句だわさ。

お手本っうか元ネタっうかは、其の筋の大家宗因の句の

 年たけてなりけりなりけり春に又 宗因
(としたけて なりけりなりけり はるにまた)

とか。

宗因の句は、西行さんの

 年たけてまた越ゆべしと思ひきや
 命なりけり小夜の中山

をこれまた戴きーっうわけでさ。

芭蕉くん、西行さんの「命なりけり」じゃなく、「年末になりにけり」でいいんかい?! と余はビックリ。

もしかしてだが、後世あんなに西行さんに憧れていた芭蕉くんだが・・そうか!

実は芭蕉くん、この時はそれほどまで、西行さんのことを勉強出来ていなかったのかも知れないと、余は仮説した。

なんせ「年末になりにけり」で満足しているみたいだし。

なりにけりなりにけりまであと7日 半可ξ
(なりにけり なりにけりまで あとなのか)


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12月26日

堅田にて

病雁の夜寒に落ちて旅寝哉 芭蕉
(びょうがんの よざむにおちて たびねかな)

元禄三年九月の作。47歳。と。

近江堅田千那の寺本福寺にて。と。

旅先で体調をこわし弱気になっている心を素直に詠んだ句だとおもうずら。

おいらも、人生の旅の最中で・・終わるのかな・・って。

・・・・

余は5年前、健康診断で突然「癌」を宣告された。

すぐに患部全摘。
転移もなく、
経過観察期間5年満了をまもなく無事に迎えることができそうだ。

5年前、余はまさに、堅田での芭蕉の気持ちと一緒だった。

・・・・

人が病を得ると、心の病の方が危ない。
それを避けるため、余は、心細さと病の両方を医者に預けた。

つまり、医者のやりたいことを、余が手助けをするっう気持ちで、癌根絶大作戦に望んだ。

これが余自身にとつてもっとも楽な心のケアーであると実感した。

たとえば、大谷選手ホームランは、俺の応援で打てたんだと独善的にひとり喜ぶ。

こんな単純バカな思い込みが、医者との関係に最も効果的な「コミ技」となるのだと思う。

はやいはなし、物理的な病は、物理的に100%体内から根絶できる。 ただ単に、その作業で医者にプレッシャーを与えず、失敗させなければいいだけだ。

だから、邪魔しない。応援するのだ。

これには、むかしやっていた職業で身に着けた、人をおだてたり忖度したりそのきにさせるせこい「技」が、そうとう役にたった。

・・言っときますが、その職業、詐欺師でも役人でも代議士でも総理大臣でもないですからね。

さてさて兎に角、5周年。
無事ここにあることは感謝にたえない。

で、半可ξひとり付け

5年前
病癌の恐怖に落ちた師走哉 半可ξ
(びょうがんの きょうふにおちた しわすかな)
5年後
拾ったいのちに呆けの恐怖が 半可ξ
(ひろったいのちに ぼけのきょうふが)

よきこともあしきこともじんせい


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12月27日

九たび起きても月の七ツ哉 芭蕉
(ここのたび おきてもつきの ななつかな)

元禄四年江戸。と。

秋の夜 ながーーあーーーい っう変な句だわさ。

月の七ッは、♪お江戸日本橋七つ立ち♪ の七ッのことだわさ。

まだ夜明け前、日の出の2時間とか2時間半くらい前の時間だす。

ところで、数字、正確にはアラビア数字をなにげなく見ていて、どうして数字はこんなふうに書かれるようになったのだろうという疑問が湧いた。

世の中便利なもので、
余にとっての大問題も、ネット検索5分で解決した。

一等初め、数字の1は、図形として見ると「角の数」が1つ、数字2は「角の数」が2つ・・なんだそうだ。  もちろん9も角が九つ。で、角が「ない」ので「ゼロ」ってか?!


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裏取ったわけじゃないけど・・ほんまっぽい。

でもさ、7と8は外角をカウント。
ちと苦しいよね。

まあ取り敢えず、メイド・イン・インドっうことで、イィンダスっうことで、「すうーっ」とした「じー」とでも言っておこう。

突然ですが、北国は、そろそろ根雪の時機到来でがんす。

九たび掻いても積もる根雪哉 半可ξ
(ここのたび かいてもつもる ねゆきかな)

12月28日

五月雨をあつめて早し最上川 芭蕉
(さみだれを あつめてはやし もがみがわ)

今日は無理矢理、奥の細道から有名なのをひとつ。

それというのも
大河っうことで兎に角・・

えーと、来年の大河は西郷隆盛だという。

維新後の西郷は、富国強兵と廃藩置県を軸に行政の中央集権化を強力に推し進める木戸・大隈一強政権との間に、徐々に距離を開いていった。

竹馬の友大久保までも西郷を見捨ててしまう。

木戸・大隈一強政権は、西郷の抹殺まで企てたと、西郷一派を憤らせ、事態は西南戦争へと急変する。

まるで今の時代のようだ。

キャストは

木戸孝允(長州 安倍晋三 行政権力の独占・軍事力強化)
大隈重信(九州 麻生太郎 あるのであると話が良くわからない)
大久保利通(民州 前原誠司 落ち目の無策者)
西郷隆盛(民州 枝野幸男 まっとうまっとうで人気はあるが支持者は少ない)

しかし、こうなると来年の参議院選の結果が心配だ。

でも、国賊西郷は、死しても国民には大人気。

さっそく歌舞伎で大大ヒーローに。

明治十一年二月新富座『西南雲晴朝東風』。作河竹黙阿弥。
九代目市川団十郎・五代目尾上菊五郎・ 初代市川左団次らが出演。

その前振れのポスター的な浮世絵 ↓ 明治十年十一月の許可申請ものだ。

今時よりずーっとある意味マスコミは頑張っていた。

来年は政治家もマスコミもちゃんとしてねと思いつつ・・川に因んで柳で失礼します。

醜聞をあつめて囃し得意顔 半可ξ
(しゅうぶんを あつめてはやし とくいがお)


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囂kamabisuan庵